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迷歩録   まじめ

2016-09-08 14:12:24 | 日記
  秋桜を  静かに揺らす  蝉しぐれ  暑さ過ぎたる  川べりの路

                             ひのひら  ろくべえ >



   真面目とは何であろう、真面目に働け、真面目に生きよなどと真面目を強調される。特に親や教育者

  など目上の人から、真面目を強調される。真面目に生きるという事はどういう事なんであろうか。誰も

  犯罪などを起こして生きようとはしていない。ひたすら自分の運命のままに生きてるだけなのに、真面

  目を強調される。真面目とは他者を憎まないことなのか、他者に対する憎しみを押し殺していい子にな

  る。それが真面目という事なのか。

   心の奥底に、嫌な事、憎たらしいこと、好きという感情、嫌いと言う感情、様々な心の葛藤を、閉じ

  込めて生きることなのか?誰もわからない真面目という生き方、自分の心を抑圧して生きるとは、疲れ

  ることではないだろうか。真面目が一番それであなたは幸せ、真面目が一番の感覚で人の心が理解でき

  る?、真面目であることは望ましいことなのだろうか、真面目という概念も曖昧なままに、真面目だけ

  でいいのだろうか。裏も表も知りながらかかわりを求めるところに信頼は生まれるのではないだろうか。

   良いか悪いか自分だけ我慢すればうまく行くなどと我慢をすることに美しさを求めて生きてる人は、

  他者の世話などには向かないのではないだろうか。無理な堰き止めは、ダムと同じ決壊すれば、とんで

  もないことになってしまう。心の流れ、感情を堰き止めない生き方をしなければ決壊する。

   真面目だけではいつの日か心が決壊しかねない、だから時には他者にすべてを許し、心を開放するこ

  とが必要なのである。しかし真面目な人はそのことに対しても罪悪感を持ち、特定の人を持つこともで

  きない。でも理想は高く自分を解ってくれる人が、何の努力をしないでも、リスクなしに現れると思い

  込んでいる。それでは対人援助も表面的となり、真面目な人は面白くないと奥底で嫌われることにもな

  る。仕事もプライベートも、自分なのである。人を知るという事は、裏も表もその中もより多くの人を

  しることがスタートではないだろうか。教科書やテキスト、限られた人間関係以上の学ぶ場を持つこと

  の大切さがそこにあるのだろう。教育というものは、人間の全てを見せることにあるのであろう。弱

  いところも、欲深い所も、エロイ所も、スケベ心も、ありとあらゆる自分を見せてこそ教育ではないだ

  ろうか、真面目な部分だけを演出した教育では限界があるのだろう。真面目な部分、不真面目な部分、

 両方を持ち合わせているのが人間なのであろう。不真面目な関係ほど信頼を得ることもある。

   真面目をほめる前に、不真面目も認め、今その人にとってどちらがいいのかを選択できるようにかか

  わる。いいか悪いかではないかかわり方をしたいものである。