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こぼれ種からたくさん繁ったピーナッツの花
カラスのお土産、ピーナッツから芽をだして
こんなに繁りました。
6月17日、第3日曜日は父の日、母の日よりも少し陰の薄い
父の日のように思うが・・・
日頃の労苦をおもうと、おかしなすれ違いも忘れるほどに
こころから感謝をしなくてはなりません。
ひさしぶりにじいやの更新です。
昭和20年6月21日 フイリッピン・ルソン島で・戦死。
間もなく亡き父親の74回忌をむかえます。
「小学2年生の夏、俺は一人で荒尾駅に父の遺骨を受け取りにいった・・・」
小さな木の箱には、遺骨はなく丸い石ころがカタカタと音がしていた。
白い布に巻いた木箱を胸に抱いて帰った。
部屋の窓から南方に見える万田山は、今日は雨雲に霞んで
あまり見えません。
世界遺産万田坑のガイドとして今日も元気にでていきました。
こんにちは~
父は世界遺産となった万田坑の採土所で働いていました。
地盤沈下防止のため石炭採掘した後の空洞に充填するためです。
当時は子供3人との5人家族で普通の生活ができていました。
しかし太平洋戦争で父は招集されフイリッピンで戦死しました。
母から後日、「出世前夜、四つ山神社にお祈りに行った」と聞かされた。
無事に生還できるように祈ったにちがない。
私は今、万田坑のガイドをしています。歴史がこれからも戦争のない世の中を照らしてくれることを望みながら、崖になった万田山を見ています。
船の沈没で遺骨などあるはずもなく、同じように石ころが入っていたそうで、
それを見た途端、泣けてきたと言っていました。
大叔母は子供も無かったこともあり、母を可愛がって、
母も寡婦となり働きだした後、その子供である私たちを祖母と共に育ててくれました。
実際、大叔母の方のかかわりが深かった気がします。そんな大叔母の事を思い出しました。
そして小学2年生で、そんな形でお父様の死と向き合った ご主人様の悲しみの大きさを思うと胸が痛みます。
(本当はじいやさんとは呼びたくないのですが)
時々四つ山にいきます。お参りしてぐるっとひとまわり荒尾を眺め遠くに多良岳や雲仙岳を一望。
いいところですね。帰りに四山坑三川坑跡を通りましたが昔のおもかげはありませんでした。
いつも万田坑の周りを行ったり来たりしています。
5歳のとき父が戦地から帰りました。
しばらく(おっちやん)と呼んでいたらしいです。
戸籍上は小生が長男です、
中学生の頃、社会の先生で足が片方ない先生がおられ、中国戦線で愛馬が撃たれ苦しんでいるのを見て拳銃で撃とうとしたら「まだ歩けるよ、一緒に行こうよ」と大きな目から涙を流したそうです、その話をされた物静かで ご自身も足をなくされた先生も泣いておられました、
じいやさんの父君も南方で御苦労され また 小学2年のじいやさんが白い箱を一人受けたられた、、
戦争は悲惨です
合掌
今お元気で頑張っているのが何よりです。
昭和20年8月15日、私は小学校3年生、学童集団疎開で富山県の寺にいました。
父は私が小学校2年の2月
北支の戦場に行きました。父はその前年再婚したばかり。
(私は母を5歳の時病死、)後添えと結婚1年未満で私を継母にたくし戦場にいきました。
家族3人が北支、東京、富山とバラバラでした。
お陰様で私が小学4年生の時父は復員してきました。
小学校に上がる前に、毎晩やさしく算数を教えてくれました。問題を作ってくれて、それが出来るととても喜んで褒めてくれました。
おかげで理数系が得意になり、そのほかの勉強も大好きになり、小さな身体でもクラスのいじめっ子には一目置かれていて、いじめも受けずに済みました。
>「小学2年生の夏、俺は一人で荒尾駅に父の遺骨を受け取りにいった・・・」
まだ8歳位の幼い頃に、なんという悲しい目にあわれたのでしょうか。
そんな過酷な体験が、後々「一本筋の通った」立派な人間になられたのだと思います。
今日6月21日、亡き義父の命日です。一緒に近くにあるじいやの実家の墓へお参りにいってきましょう。
70代の方々には、それぞれ悲惨な戦争の傷跡が胸の中に・・・いつまでも消え去ることはありませんね。
父親の思い出は、幼いころ近くの大きな池で
汗をながすために、抱かれて冷たい水につかったことが一番うれしかったと。
今、そのときの池は建て込んだ住宅にかこまれて水が減り、池の底がみえるときもあり横を通るたびにその言葉をおもいだして涙します。
>「おっちゃん」・・・
見知らぬ男の人、おっちゃんが戦地から帰ったお父さんだったのですね。切ないひびきです・・・
私と婚約したばかりのころ、父恋しさから3番方明けの朝帰りに、木工所経営していた私の父を手伝うために、リヤカーを引いたり大工の仕事を手伝ってくれていました。それがうれしかったそうです。
四ツ山坑,三川坑も様変わりしてしまい、昔をおもいださせるものは焼けただれた炭坑電車のみになり、さみしいですね。
建物はこわされて広い公園に変身、鯉登りが五月晴れの風におおきく揺れて,幼稚園バスから降りたたくさんの幼稚園児があそんでいました。
もし生きていられたらとおもうと、涙なしには
読めませんでした。
わたしには姉も兄もいませんが、終戦の年1月に
生まれたたったひとりの弟、6才ちがいですが
兄とおもい慕っています。
なにも悪いこともしていなくとも戦争というひどい一言で尊い命を落とす、人も動物も同じですね。
これからの青年や、おさないこどもたちにはけっしてこのようなことがないように、ただ願うばかりです。
戦死は本当悲惨ですよね。主人の父親は記憶のない頃に戦死、遺骨もありません。
実母を亡くし、はたまたやさしい後のお母さまともはなれて、さぞや淋しい思いをなされたのですね。
戦争のむごさを激しく呪いたいおもいがします。
お父様が元気で復員なされたときの喜び、戦後の辛い極貧時代もきっと乗り越えられたのだとおもいます。
当時のことは今も正確に夢の中にも写しだされます。
今の幸せが、これからももっともっと続きますように。