わたしはただ人の作った短歌を読んで、それがわかるようになればいいと思ってつくりはじめていたから、作り始めて半年ほどたって、短歌っていいなと思っているこの頃だ。日本語の美しさをもっと感じたいと思っていた。まだギクシャクはしているけれど。
ところで俳句、川柳とある共通点があると思っている。きになっているだけで、何かはまだ突き止めていない。俳句とか川柳をつくっていて、文化を破壊し、損ねる可能性を感じつつ、天賞をいただいても浮かれないようにしなければいけない。こういう賞をもらうと、危うい道のりに立っていると自戒しなければいけない。そうしないと、そこからまた、その川をわたれない。同じような場所の句はつくれないから。破壊とか、損ねるとはおおげさだが、江戸時代の芭蕉はそれまでの俳句の確立であった。正岡子規はさらに改良された俳句になっている。川柳も俳句と同じ流れから、江戸時代に川柳ができている。
俳句の天賞はその属している主宰の好みにあっているからでしょう。好みにそっているからでしょう。真相はそうでも、主宰はたくさんの詞を知っている。たくさんの日本語をしっている。そして日本の代表する作家である。その作風を目指して、自分の句を作ることは綿密な目指している計画に沿って行くでしょう。あらかじめ用意されていたものでしょうから。
ところで俳句、川柳とある共通点があると思っている。きになっているだけで、何かはまだ突き止めていない。俳句とか川柳をつくっていて、文化を破壊し、損ねる可能性を感じつつ、天賞をいただいても浮かれないようにしなければいけない。こういう賞をもらうと、危うい道のりに立っていると自戒しなければいけない。そうしないと、そこからまた、その川をわたれない。同じような場所の句はつくれないから。破壊とか、損ねるとはおおげさだが、江戸時代の芭蕉はそれまでの俳句の確立であった。正岡子規はさらに改良された俳句になっている。川柳も俳句と同じ流れから、江戸時代に川柳ができている。
俳句の天賞はその属している主宰の好みにあっているからでしょう。好みにそっているからでしょう。真相はそうでも、主宰はたくさんの詞を知っている。たくさんの日本語をしっている。そして日本の代表する作家である。その作風を目指して、自分の句を作ることは綿密な目指している計画に沿って行くでしょう。あらかじめ用意されていたものでしょうから。