教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

父の12月8日 改訂

2006年12月20日 | 平和について
 12月8日をジョン・レノンが亡くなった日と答える人も世界では多いと思います。でも忘れてならないのは、この日は日本がアメリカ・イギリスを攻撃し、太平洋戦争が始まった日だということです。
 私が、中学校の社会科教員になったとき、1941年12月8日に何をしていたのかと父にたずねました。父の答えは、「香港島めざして泳いでた」でした。
 父が戦争に行ったのは1939年です。1931年の満州事変に始まる対中国戦争は、1937年に日中全面戦争へと発展していきます。父は1939年に日中戦争に動員され、中国南部での戦闘に明け暮れていたのですが、12月8日、当時イギリスが支配していた香港を攻撃することになったのです。
 父の所属は陸軍工兵隊でした。軍隊というのは部隊によって役割が分かれており、工兵隊というのは、戦闘が始まる前に敵の基地に近づき、歩兵隊や砲兵隊・戦車隊が攻め込むための通り道を作る役割を担います。香港というのは、大阪で言えば淡路島のように中国本土の近くにある島です。12月8日の夜、闇にまぎれながら父の部隊はイギリス軍に気づかれないように泳いで香港島に渡り、海岸に埋められている地雷を撤去し、鉄条網を壊し、戦闘が始まったのです。
 「香港に着く前に、たくさんの兵士が泳ぎ疲れて海に沈んだ」と父は言っていました。泳ぐと言っても鉄砲・弾薬・工具など、20kgほどの荷物を油紙に包んで、真っ暗な海で泳ぐのです。イギリス軍と戦う前に、多くの兵士が「戦死」したことと思います。
 その後父の戦場は、ベトナム・シンガポール・タイへと移り、最後はインパール作戦の敗北(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった。『決定版昭和史』より)により、ビルマ(現ミャンマー)でイギリス軍の捕虜となりました。捕虜生活は敗戦後も続き、帰国できたのは1947年の夏です。戦争の話はしたがらない父でしたが「海外旅行は、コリゴリや。日本人が海外に行って、現地の人に喜ばれるわけがない」「ウジの湧いた死体を家族が見たら気が変になるやろうな」と言ったことばが私に強く残っています。
 温厚で優しい人でした。そんな父も苦しみながらも人を殺してきたのかと思うと、人を殺人者に変える戦争の恐ろしさを感じざるを得ません。