犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その9

2014-04-01 23:39:46 | 国家・政治・刑罰

 今回のような訴訟が提起され、かつ原告側の敗訴となった件について、当事者の関係者以外の法律家は基本的に無関心だと思います。これは、全国の弁護士会が熱くなって会長声明を出すような裁判とは非常に対照的です。証拠から事実を推論する民事訴訟の構造からは、恐らく原告の敗訴になるだろうという予想を有しつつ、そのようなシステムを主宰していることに心を痛めることがありません。そして、これを期待しても虚しいことは、私が自分自身の心情を観察して深く知り抜いていることでもあります。

 法律家の得意分野は、ロゴスではなくロジックです。重箱の隅を突いて揚げ足を取ることは得意ですが、天災の論理の前では肩書きなどは役に立たず、狼狽するのみだと思います。「社会に問題提起したい」と言っても敗訴すれば逆効果となる危険があり、勝訴の先には「裁判に勝っても死者は帰らない」という絶望がある以上、従来の法律の理論とはポイントが合いません。逆に、双方に訴訟代理人が就くが故の容赦ない人格の非難合戦を生じさせ、争いを泥沼に陥らせるのが法律の常態であるとも感じます。

 最後は私自身の無責任な願望ですが、このような訴訟では双方の弁護士が通常の論理を切り替えて、天災を前にすれば法律は所詮はこの世のルールに過ぎず、法律の白黒を超えた「謎」「真実」が存在し、被害者の死ではなく自らの死を捉えつつ普遍的な論理を語る契機があれば、死者の上に敗訴判決が上乗せされる絶望は避けられたものと思います。「千年後の未来の子供達」どころか僅か3年で風化が指摘される社会状況において、このような決裂を避けるべきことが法律家の役割であると思うからです。