宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ロ「超感覚的世界あるいは法則」:「感覚的世界」・「現象界」こそ「超感覚的世界」(「内なるもの」)の内容をなす!

2024-05-15 14:53:16 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ロ「超感覚的世界あるいは法則」(115-117頁)
(22)「現象」の彼岸にある「内なるもの」をつかむのが「悟性」だ!
★「力の遊戯」とは「現象」のことにほかならない。なぜなら「力の遊戯」において、「一」は「多」であり、「多」もじつは「一」であり、「自」も「他」であり、「他」もじつは「自」であるからだ。(115頁)
☆一般的にいうと、「存在する」といわれるのがじつは「存在」でなくして「非存在」であり、「非存在」といわれるのがじつは「非存在」でなく「存在」であるから、「力の遊戯」は「現象」にほかならない。(115-116頁)
★この「現象」の彼岸にある「内なるもの」をつかむのが「悟性」だ。(116頁)

(22)-2 「内なるもの」は「彼岸」にあるものであり、「現象」の否定であるから、「内なるもの」は「虚無」である!だがこういうカント流の考え方は「抽象的」(Cf. 「具体的」)だ!
★ここでの問題は「内なるもの」は何かということだ。(116頁)
☆最初「内なるもの」は全然の「虚無」と考えられる。「内なるもの」は、「いろいろな雑多」即ち「多種多様の内容のもの」の「彼岸」にあるものであり、「現象」の否定であるから、「内なるもの」は「虚無」と考えられる。(116頁)
☆ここでは、「『理性』は『現象界』を媒介としてその背後にある『無制約的なもの』、『内なるもの』を認識するものだ」というカントの「理性」概念を、ヘーゲルは積極的に生かしている。(116頁)
☆しかしカントの誤りは、「現象」と「現象を超えたもの」との関係を十分に考えていないことだとヘーゲルは言う。カントは「現象を超えたもの」即ち「内なるもの」を全くの「虚無」で「認識せられえない」とするが、こういうカント流の考え方は「抽象的」(Cf. 「具体的」)だと批判される。(116頁)

(22)-3 「超感覚的世界」(「内なるもの」)と「感覚的世界」は全然別個のものではなく、むしろ「現象界」こそ「超感覚世界」の内容をなすと、ヘーゲルは考える!
★「超感性的のもの(Cf.  プラトンのイデア)」は「内なるもの」ではあっても、それは「現象」を媒介にしてとらえるべきものだとヘーゲルは考える。「内なるもの」・「超感覚的なもの」は「現象」と切りはなせない。(116頁)
☆「超感覚的世界」(Cf. イデア界)と「感覚的世界」は全然別個のものではなく、むしろ「現象界」こそ「超感覚世界」の内容をなす。(116頁)
☆「現象界」は「一と多」、「自と他」、「個別と普遍」というように対立を形づくるにしても、この対立が「一」に帰した時に「内なるもの」・「超感覚的世界」が成り立つ。したがって「内なるもの」・「超感覚的世界」は「一と多」、「自と他」、「個別と普遍」という対立を全然はなれたものではなく、むしろ「止揚された契機」として含む。(116頁)

(22)-3-2 「超感覚的なもの」は「感性的なもの」の真実態にほかならない!「『現象』と『本体』はきりはなせない」!「『現象』と切りはなしては『本質』も抽象的であり、『本質』は『現象』を通じてのみ把握される」というヘーゲル哲学の根本的テーゼ!
★この意味で「超感覚的世界」は「感性的世界」即ち「現象」にほかならず、「超感覚的なもの」は「感性的なもの」にほかならない。つまり「超感覚的なもの」は「感性的なもの」の真実態にほかならない。(116頁)
☆これは一般的にいって「『現象』と『本体』はきりはなせない」ということを意味する。ここには「『現象』と切りはなしては『本質』も抽象的であり、『本質』は『現象』を通じてのみ把握される」というヘーゲル哲学の根本的テーゼがあらわれている。(116-117頁)

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