宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」1「感覚」(その1):「このもの」を「言葉」で現わすなら「普遍的なもの」が付け加わる!「純然たる個別的なもの」はない!

2024-05-01 13:25:59 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」1「感覚」(その1)(92-94頁)
(15)「このもの」というものは、はたしてあるのか?ヘーゲルは「このもの」について、時間と空間の両方向に注目し、「ここ」と「今」について考える!
★「感覚」は「個別的なもの」or「このもの」を認識し、それをつかむと考えている。だが「このもの」というものは、はたしてあるのか?(92頁)
★ヘーゲルは「このもの」について、時間と空間の両方向に注目し、「ここ」と「今」について考える。(92-93頁)
Cf. 「時間」「空間」の規定は『精神現象学』の全体を通じて、相当重要だ。①「悟性」の段階における「法則」が時間と空間の契機を含んでいる。②「生命」が時間の面と空間の面を含む。③「絶対知」が一方において「広がり」をもつが他方において「深さ」をもつ。④カントの「直観」が時間と空間の2つの形式を具えていることとも結びつきがある。ただし「時間空間の形式」をそれ自身として扱うことは、ヘーゲルにおいては「自然哲学」の方にうつされ、『精神現象学』においては直接には問題になっていない。(93頁)

《参考 》ヘーゲル『精神現象学』目次!(333-336頁)
(A)「意識」(※「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(15)-2 単なる「このもの」としての「今」はない!
★「このもの」というものは、はたしてあるのか?ヘーゲルは「このもの」を「時間」と「空間」の両方向に考える。さてま「ここ」と「今」と二つに分けて、まず「今」がはたして「このもの」として成り立つかどうか考えてみる。(93-94頁)
☆例えば「今」は「昼」だ。それを書き留めておく。ところが晩になってその記述を出してみると「今」は「夜」だ。寝て起きて顔を洗うとき「今」は「朝」だ。だから「今」は「このもの」でなくして「普遍者」だ。(94頁)
・「今は昼である」という時の「昼」は、なにかある「普遍者」のなかの「このもの」である。(94頁)
・「今」は、他のものと全然関係なしの「このもの」としての「今」ではない。(94頁)
・単なる「このもの」としての「今」はない。(94頁)

(15)-2-2 「ここ」にしても単なる個別者でない!
★「このもの」について、「空間」つまり「ここ」という方向について考えてみる。例えば「ここ」は机だ。しかし横を向けば木があり、「ここ」は木だ。あるいは「ここ」は校庭とか、「ここ」は黒板だ。(94頁)
・「個別的」にこの「ここ」だけを考えるのは間違いであって、机も木も黒板も庭も「ここ」であるから、「ここ」は「普遍的」である。(94頁)

(15)-2-3 「言葉」で現わそうとするならば、「普遍的なもの」が付け加わる。だから「純然たる個別的なもの」はない!
★このようにして「このもの」について、「今」にしても、「ここ」にしても、単なる「個別者」ではない。単なる「個別的なるもの」は「言葉」(Ex. 「今」or「ここ」)で現すことができない。「このもの」について、「言葉」で現わそうとするならば、いつもなにか「普遍的なもの」が付け加わってくる。だから「純然たる個別的なもの」はない。(94頁)

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