宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その3):(B)「自己意識」の段階において、「自己」はまず「欲望」という態度をとる!

2024-05-24 11:35:54 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その3)(129-131頁)
(25)-5 ヘーゲルは「欲望の対象」になるものを「生命あるいは生きもの」と規定する!
★(B)「自己意識」の段階(Cf. (A)「意識」or「対象意識」)において、「自己」はまず「欲望」という態度をとる。(129頁)
★ヘーゲルは「欲望の対象」になるものを「生命あるいは生きもの」と規定する。(129頁)

《感想1》「欲望の対象」(「生命あるいは生きもの」)は日常的には《カネ》・《権力》・《性的対象(Ex. 女)》・《地位》・《財物》などだ。
《感想1-2》「生命あるいは生きもの」が「欲望の対象」となるとは、《カネ》は他我(他の「生命あるいは生きもの」たる人間)が受け取るからであり、《権力》は他我がひれ伏すからであり、《性的対象(Ex. 女)》は他我が自我の指示・暴力に従うからであり、《地位》は他我が羨望するからである。かように「欲望の対象」は、「生命あるいは生きもの」としての他我である。
《感想2》《財物》が「欲望の対象」(「生命あるいは生きもの」)となるとは、へーゲルが一例として「食欲」・「食物」について語った通りだ。《財物》が「無限性の原理」によって、「生命あるいは生きもの」である自我と「同一」となる(「自己化」しうる)からだ。

★われわれが「食物」(※「欲望の対象」である「財物」のひとつ)に面し、それをとって食べるさい、「食物が自我に対立し自我から独立して絶対におかすべからざる他者性をもつ」と信ずるとすれば、とって食い「自己化」しえない。(129頁)
☆だが「食物は『他者』(Cf. 対象)にちがいないにしても『自我に対立するだけの力』をもたず無力である」と自我で確信しているからこそ、とって食べることができる。(129頁)

《参考1》☆つまり(B)「自己意識」の段階でも、(A)「意識(対象意識)」のⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」はやはりあるのだから「自己」が「他者」(Cf. 「対象」)を意識することが残るわけだが、そうかといって、ここではすでに「無限性」の立場がとられているから、「他者」(Cf. 「対象」)といっても「自己」と全然別のものでなく、本質的には「自己」と同じものだ。(128頁)
☆すなわち「対象」は、「現象」においては「他者」であるが、つまり「他者」であるかのごとき「現象」を呈するが、しかし「対象」は、「自己」あるいは「自我」と本質的には同じものであるということになる。(128頁)

《参考2》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
☆「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)
☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

(25)-6 ①「客観的な即自的な無限性」(「生命」or「生きもの」)と②「対自的自覚的な無限性」!
★ヘーゲルは「欲望の対象」になるものを「生命あるいは生きもの」と規定する。かく規定する根底には「無限性の原理」がある。(129頁) 
☆「無限性」というのは、「統一があって、それが対立し分割し、さらに対立が統一にかえる」ということだ。(129頁) 
★へーゲルは「無限性」について2通りのもの区別する。すなわち①「無限性であるにとどまる」場合と、②「無限性であることを自覚している」場合だ。(129-130頁)
☆即ち①「客観的な即自的な無限性」と②「対自的自覚的な無限性」だ。(130頁)

(25)-7 「客観的即自的な無限性」とは普通に「生命」とか「生きもの」とかいわれるものだ!
★①「客観的即自的な無限性」とは普通に「生命」とか「生きもの」とかいわれるものにほかならない。(130頁)
☆ヘーゲルによれば、「無限性」の立場では「対立がありながら統一に帰入し、そうして統一がまた対立に分裂する」が、このような「運動」であるだけで、そうであることを「自覚」していないものが「生命」(「客観的即自的な無限性」)である。(130頁)

(25)-8 「生命」(「客観的即自的な無限性」)における「対立」:「統一と区別」、「時間と空間」、「連続と非連続」等、さらには「過程と形態」or「機能と組織」!
★「生命」(「客観的即自的な無限性」)の立場では「対立」は、先に述べた「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」、「力と発現」などは、「統一と区別」、「時間と空間」、「連続と非連続」等とも、さらには「過程と形態」、「機能と組織」とも呼ばれる。(130頁)

《参考》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)

(25)-9 「生物」(「生命」・「生きもの」・「客観的即自的な無限性」)の基本構造:①[機能]感受性・[組織]神経組織、② [機能]反応性・[組織]筋肉組織、③ [機能]再生・[組織]内臓組織!「生物」は「過程」(「機能」)であると同時に「形態」(「組織」)だ!「統一」は「区別」、「区別」は「統一」だ!
★説明をわかりやすくするために「機能と組織」の場合から述べたい。ヘーゲル『エンチュクロペディー』を考慮すると「生物」の基本構造は次のごとくだ。(130頁)
☆①[機能]感受性・[組織]神経組織、② [機能]反応性・[組織]筋肉組織、③ [機能]再生・[組織]内臓組織。(130頁)
☆比較的高等動物の場合に明らかなように、「生物」は①「神経組織」を用いて外界のものを「感受」し、②「筋肉組織」を用いて外界に「反応」し、③「内臓組織」により外からのものを「消化同化」して自己を「再生」・「保存」し、また「同種の他の個体を生む」。(131頁)

★このことは後に「観察的理性」の段階でも重要になってくるので、ここで一応説明しておこう。(131頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

★「機能」と「組織」について:「機能」(「過程」)がなくては「組織」(「形態」)はありえないが、逆に「組織」がなくても「機能」はない。だから「生物」は「過程」であると同時に「形態」だ。(131頁)
★「機能」について:さらに「機能」自身も「感受」と「反応」と「再生」との区別をもちながら、これらは相互依存の関係にあるから、そのさいの「区別」も「統一」に帰する。(131頁)
★「組織」について:同じことは「組織」の側についてもいえる。だから「統一」は「区別」、「区別」は「統一」ということになる。(131頁)

★さらに「生物」が感受し反応し再生するのは「過程」として「時間的」であり、そのような過程ないし機能を営むことにより、「生物」が自分にいろんな分肢を与え、自分を「組織」づけるのは「空間的」たるゆえんだ。(131頁)
☆そうして「空間的」たることは「非連続的」、「時間的」たることは「連続的」だ。(131頁)

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