※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)
第4章「一致を求めて」(その3)
(22) ドナティスト(ドナトゥス派):311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任されたが、それにドナティストが異議をとなえた!
(h)アウグスティヌスがヒッポの司教となった396年(42歳)の頃、ヒッポを含む北アフリカのキリスト教は、カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)に分裂していた。アウグスティヌスはその問題に対処しなければならなかった。(103頁)
(h)-2 北アフリカにキリスト教が伝わったのは紀元2世紀である。そして多くの殉教者もでた。(104頁)
(h)-3 ドナティストによる教会分裂の発端は303-305年のドミティアヌス帝による大迫害期にさかのぼる。その厳しい弾圧の中、官憲に教会の聖書を引き渡す事件が起きた。そうした者たちは「聖書を引き渡した者」あるいは「裏切り者たち」(トラディトレス)と呼ばれた。(105頁)
(h)-4 311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任される。だが彼を支持する司教たちの中に「裏切り者たち」が含まれるという嫌疑がかかった。かくてカエキリアヌスの就任を承服できない司教たちが、司教ドナトゥスのもとに結集した。こうして北アフリカのキリスト教会はカトリックの正統を名のる司教カエキリアヌス派とそれに異議をとなえるドナティスト(ドナトゥス派)に分裂した。この分裂は約100年続く。(105-106頁)
(22)-2 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令!
(h)-5 ローマ皇帝たちの方針は一定でなく、ドナティストを禁止する布告も出されたが、実効性がなかった。4世紀末、カトリック教会はカルタゴの司教アウレリウスのリーダーシップのもと、この事態の対処に乗り出す。(108頁)
(h)-5-2 そもそもローマ皇帝にとって、重要な食糧供給基地である北アフリカのカトリック教会が、地元の事情で分裂している状態は捨て置けなかった。(106頁)
(h)-5-3 カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)が宮廷(ラヴェンナ)で活発なロビー活動を展開する。そうした中、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝が410年(アウグスティヌス56歳)、両派の協議会を招集した。カルタゴに284名のドナトゥス派教会の司教と186名のカトリック教会(カエキリアヌス派)の司教が勢ぞろいした。(109-110頁)
(h)-5-4 両派の協議会の3日目、アウグスティヌスが証拠を満を持して提示した。それはドナティストも抗いえない「コンスタンティヌス帝の通達」だった。コンスタンティヌス帝は316年、皇帝代理官を通じてアフリカの全教会にたいして、「カエキリアヌス派の無罪とドナトゥス派の有罪」を通達していたのだった。これによってカエキリアヌス派がカトリック教会の「正統」であると、協議会に派遣されていた皇帝代理マルケリヌスが決着した。(106-107頁、110頁)
(h)-5-5 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令が発せられた。ドナトゥス派教会は司教も含めカトリック教会に併合され、土地財産も吸収された。(110頁)
(22)-3 アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認した!
(i)ドナティスト(ドナトゥス派)に対するアウグスティヌスの見解は『ドナティストの矯正』(417年、63歳)に述べられている。アウグスティヌスは、教師や親は子供に対して「懲戒」を加え正しい道に戻す責務があると考えていた。聖書に「道や垣根のあたりの人を見つけて誰でも無理に連れてきなさい」(『ルカによる福音書』14章23節)とあることを根拠に、アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認する。(112-113頁)
(i)-2 「無理に連れてきなさい」と、アウグスティヌスは世俗権力による対立派の弾圧吸収を容認した。(113頁)
第4章「一致を求めて」(その3)
(22) ドナティスト(ドナトゥス派):311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任されたが、それにドナティストが異議をとなえた!
(h)アウグスティヌスがヒッポの司教となった396年(42歳)の頃、ヒッポを含む北アフリカのキリスト教は、カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)に分裂していた。アウグスティヌスはその問題に対処しなければならなかった。(103頁)
(h)-2 北アフリカにキリスト教が伝わったのは紀元2世紀である。そして多くの殉教者もでた。(104頁)
(h)-3 ドナティストによる教会分裂の発端は303-305年のドミティアヌス帝による大迫害期にさかのぼる。その厳しい弾圧の中、官憲に教会の聖書を引き渡す事件が起きた。そうした者たちは「聖書を引き渡した者」あるいは「裏切り者たち」(トラディトレス)と呼ばれた。(105頁)
(h)-4 311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任される。だが彼を支持する司教たちの中に「裏切り者たち」が含まれるという嫌疑がかかった。かくてカエキリアヌスの就任を承服できない司教たちが、司教ドナトゥスのもとに結集した。こうして北アフリカのキリスト教会はカトリックの正統を名のる司教カエキリアヌス派とそれに異議をとなえるドナティスト(ドナトゥス派)に分裂した。この分裂は約100年続く。(105-106頁)
(22)-2 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令!
(h)-5 ローマ皇帝たちの方針は一定でなく、ドナティストを禁止する布告も出されたが、実効性がなかった。4世紀末、カトリック教会はカルタゴの司教アウレリウスのリーダーシップのもと、この事態の対処に乗り出す。(108頁)
(h)-5-2 そもそもローマ皇帝にとって、重要な食糧供給基地である北アフリカのカトリック教会が、地元の事情で分裂している状態は捨て置けなかった。(106頁)
(h)-5-3 カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)が宮廷(ラヴェンナ)で活発なロビー活動を展開する。そうした中、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝が410年(アウグスティヌス56歳)、両派の協議会を招集した。カルタゴに284名のドナトゥス派教会の司教と186名のカトリック教会(カエキリアヌス派)の司教が勢ぞろいした。(109-110頁)
(h)-5-4 両派の協議会の3日目、アウグスティヌスが証拠を満を持して提示した。それはドナティストも抗いえない「コンスタンティヌス帝の通達」だった。コンスタンティヌス帝は316年、皇帝代理官を通じてアフリカの全教会にたいして、「カエキリアヌス派の無罪とドナトゥス派の有罪」を通達していたのだった。これによってカエキリアヌス派がカトリック教会の「正統」であると、協議会に派遣されていた皇帝代理マルケリヌスが決着した。(106-107頁、110頁)
(h)-5-5 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令が発せられた。ドナトゥス派教会は司教も含めカトリック教会に併合され、土地財産も吸収された。(110頁)
(22)-3 アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認した!
(i)ドナティスト(ドナトゥス派)に対するアウグスティヌスの見解は『ドナティストの矯正』(417年、63歳)に述べられている。アウグスティヌスは、教師や親は子供に対して「懲戒」を加え正しい道に戻す責務があると考えていた。聖書に「道や垣根のあたりの人を見つけて誰でも無理に連れてきなさい」(『ルカによる福音書』14章23節)とあることを根拠に、アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認する。(112-113頁)
(i)-2 「無理に連れてきなさい」と、アウグスティヌスは世俗権力による対立派の弾圧吸収を容認した。(113頁)