報恩講は、親鸞聖人のご恩に報いる法事で、祥月命日(1/16)前後に行われる。
今日は、朝からお坊さんが「報恩講」のお勤めに来てくれた。
お寺でも檀家が集まっての報恩講のお勤めがあるが、我が家でもお勤めをしてもらうのが恒例となっていて、毎年、母の月命日(17日)に来てもらうことにしている。
「正信偈をお勤めさせて頂きます」と言われたので、お経の本を開いた。
お経を唱和した。難解な漢字は読めないので、ひたすら「ふりがな」を読むだけ。意味はわからない。
檀家なのだから、せめてお経の内容を理解しとかなアカンと思いつつ数十年が経った。未だにチンプンカンプン。説教でわかりやすく教えてもらうしかない。
今年も報恩講は無事に勤めたという精神的な満足だけで終わったが、その後の「変わりゆく宗教事情」に話が弾んだ。
いつものとおり、仏壇の前でコーヒーを飲みながら、続いて屋外に場所を移し縁台に座ってタバコをくゆらしながら数10分の宗教談義だった。
喪主でなく葬儀会社や葬儀手配会社からの依頼による「読経のみの請負」、「葬儀をしない直葬(病院から火葬場へ直行)」、「檀家の減少とお寺の統合」、「お墓の放置対策」、「仏壇なし・法事なしの風潮」など、形骸化しつつある宗教行事の様を知った。
テレビで取り上げられた築地本願寺の運営も話題となった。
お坊さんに聞いた。「京都の大谷本廟に借りている納骨堂が一杯になる心配は?」と。
「下に引き出しもあるし、自分の代では大丈夫。今、耐震対策で建て直しを検討してるんやけど、今の「納骨された壷」をどこに移すかが大変なんや。同じ大きさの建物でないと入れへんし・・・」
「そりゃ 大変やなあ・・・」
・・・お坊さんが帰ってからの「独り言(独断と偏見)」・・・
時代と共に世の中は変わっていくし、宗教儀式が簡素化したり様変わりするのは時代の流れ。
ただ、科学はどんどん進化しているものの、今の人間が大昔の人間より精神力が強く逞しくなったとは思えない。
多様で世の中の移り変わりが早く慌ただしい社会では、自分の心を支え、心のやすらぎと豊かさを求める人々が多い。
そういう今を生きる人々の心の支えになるのが本来の宗教。儀式は簡素・質素でいいと自分も思っている。