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『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

錦町ぶらり-岩日北線遺構

2018年03月17日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


第3宇佐川橋梁


深須橋梁

 

錦町内の国道187号から分岐した宇佐川沿いの国道434号を走っていると、各所で国鉄の岩日北線となる予定であった橋梁や路盤がみられる。深須橋梁の銘板を見ると昭和53年(1978)5月に竣工しているが、昭和55年(1980)12月の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法により、列車が走ることなく岩日北線は廃止された。

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錦町ぶらり-熊が!

2018年03月16日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり






 

昨日紹介した雙津峡温泉錦パレスのホールに熊の剥製が展示してあり、表示によると昭和59年(1984)12月に美和町生見ダム付近で捕獲された月の輪熊のようである。若い頃、熊の生息地域である西中国山地の各山を探訪したが本物の熊に遭遇したり目撃したことはなかった。

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錦町ぶらり-雙津峡温泉

2018年03月15日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり








何十年ぶりに訪れたであろうか、宇佐川沿いの雙津峡温泉錦パレスで日曜日にも関わらずほぼ貸切り状態の湯船で英気を養った。この奇抜なデザインの錦パレスは昭和55年(1980)に労働福祉事業団山口保養所錦グリーンパレスとして著名設計事務所の設計で建築されたようであり、当時日本建築学会賞を受賞した名建築であったようである。時代は変わってバリアフリー化が進んできた現在、山の斜面に段状に設けられた施設には長い階段がありバリアフリー化には程遠い施設のようである。

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錦町ぶらり-蔵飾り

2018年03月14日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり




 



錦町須川地区の民家土蔵の蔵飾りで扇子の扇面が表されており初めて見るようなものである。丁度家の方がおられ何を表しているのかお尋ねをしたら家紋を表しているとのことであった。探訪した時は漆喰壁と思っていたが画像をよくみると近年モルタル壁とされその上に吹付け塗装がされているようであり扇面の蔵飾りはその際に設けられたのかも知れない。

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錦町ぶらり-警鐘塔

2018年03月13日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり






 

岩国市錦町中ノ瀬地区の国道434号脇に懐かしい警鐘塔が残されていた。高さは7~8m位の低いもので警鐘は喚鐘が利用されているものであった。(上画像)下画像は錦町須川地区の国道434号脇の高台にあった警鐘塔(?)で高さは4~5m位の低いものであるが警鐘ではなく鉄板が吊下げられ金槌で叩く珍しいものである。寺院の板木に似たようなもので初めて見るものであり、近所の人に尋ねてみると緊急の時や集会などの合図に使用しているようである。

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速谷橋架け替え工事

2018年03月12日 | 「廿日市地区」ぶらり







県道294号虫道廿日市線の速谷橋周辺で電柱が迂回するような工事が行われており何故かと思っていたら速谷橋の架け替えの準備作業のようである。道路改良工事の看板には速谷橋1期とあり工期は31年3月29日と記されていた。
現在の速谷橋は昭和26年(1951)のルース台風で流出して、その後にこの橋が架けられたもので、架橋工事中には脇に木造土橋の仮橋が設けられてバスやトラックが通っていたのを小学生の頃見て覚えている。強烈に記憶があるのは基礎工事で泥水の中に素潜りで潜り何かの作業をしていたことである。

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道路に丸い反射光が!

2018年03月11日 | 「廿日市地区」ぶらり




 


道路を歩いているとカーブミラーの反射光が日陰となっている道路に丸く投影されていた。当日何キロも歩き道中カーブミラーが数多く設置されていたがこのような条件に合致するような所は見られなかった。

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納屋の与力窓

2018年03月10日 | 建造物










上平良・原地区にある農家の納屋には太い格子を横にとりつけた与力窓がみられ、このような与力窓はかつて納屋や牛馬小屋などにみられたが今では少なくなっている。下画像はかつて地御前街並みでみられた醸造商家の厨子二階部分の窓が与力窓の珍しいものであったがすでになくなっている。

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野間神社の注連縄

2018年03月09日 | その他










以前、速谷神社の祭神飽速玉男命と同じ祭神の今治市にある野間神社を参詣したことを紹介したが、拝殿に架けられている注連縄の菰編みが当ブログ主は初めてみるような編み方でありどのように編むのであろうか。当神社では秋の祭礼にわら神輿神事が行われているようであり拝殿内にわら神輿がみられた。当地のわら細工に秀でた人達によってこのような菰編みがされているのであろうか。

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笹藪にキャデラックが!

2018年03月08日 | 「廿日市地区」ぶらり




以前にも紹介したが極楽寺山に向かう途中の道路脇の笹藪に外車がまだあった。この車は米国ゼネラルモーターズのキャデラックのようである。
見た感じではまだ廃車して朽ちかけたような状態ではなくチョッとレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・

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サインけん玉

2018年03月07日 | 「廿日市地区」ぶらり




昨日紹介したはつかいち文化ホール”さくらぴあ”の市民ホールに設置されている大けん玉の脇にサイン色紙ならぬサインけん玉がショーケースの中にあった。このサインけん玉は”さくらぴあ”で公演をした人達にけん玉にサインをして貰ったもののようで、手前には綾小路きみまろや山形由美、米村でんじろう、松平健など著名人ら数多くのサインけん玉があった。

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大けん玉の色々

2018年03月06日 | 「廿日市地区」ぶらり











上画像は新宮中央公園(けん玉公園)前の平良駅通線(ふれあい通り)歩道に設置されている石造のけん玉モニュメント。中画像ははつかいち文化ホール”さくらぴあ”の市民ホールに設置されているクスノキ製の大けん玉で平成27年に彫刻家の秋山隆氏が彫刻したようである。下画像はゆめタウン廿日市の1階ホールに設置されている集成材の大けん玉で平成28年に集成材の㈱タハラでNC加工技術で製作されたようである。けん玉は廿日市の轆轤細工で生まれたものであるがこのような大型のけん玉は轆轤技術で製作することは出来ないのであろう。

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けん玉デザインのマンホール蓋

2018年03月05日 | 「廿日市地区」ぶらり







けん玉商店街近くの廿日市1丁目7番と8番の間を通る市道の歩道に設置されているマンホール蓋で、AROUND THE WORLDとあり地球儀と手に持ったけん玉がデザインされている。廿日市が発祥の地で世界中に広まったけん玉をデザインしたカラーのマンホール蓋である。

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椎茸ホダ木に植菌

2018年03月04日 | 農業

 


去年秋に伐採したドングリの木(クヌギか?)にドリルで穴を開けて椎茸の種菌を打ち込みを始めたがドリルが古くて調子が悪く新調する羽目になり昨日は半分しか出来なかった。4~5年位でホダ木は腐食したりシロアリに食われてスカスカになるので毎年少しずつ補充をしていかなくてはいけないが、少し怠っていたのか椎茸が生えるホダ木が少なくなったようである。

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空山登山③-狼倉山城跡

2018年03月03日 | 登山













40年位前に狼倉山城跡の探査のために空山に登っているのだがどこを見たのか記憶が残っていない。最高所の展望巨岩がある平壇地が城跡と思われ東側には堀切りかと思われるような溝状の窪みがみられ、樹木がなかったら折敷畑山や石州往還筋が俯瞰できる要衝の地である。
江戸期の地誌、軍記、覚書などには狼倉山、狼山、狼カ蔵などと記されており、厳島合戦の前哨戦である折敷畑山合戦後に毛利氏は向城として進藤豊後守を守備させたようである。

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