山陽自動車道(正式には広島岩国道路)で大野地区を走っていると「残念さん」との看板がみられるが初めて見たドライバーは何かと思うであろう。
幕末の長州戦争時に宮津藩士の依田伴蔵が和平の使者として遣わされていたが四十八坂で長州藩の遊撃隊に撃たれ本懐達成できず「残念」と叫んで倒れたという。土地の人々が戦死を悼み残念社を建てて祀り「残念様」といったようである。
「残念様」は諸病が全快するということで祠の前には線香の煙が絶えなかったそうで、四十八坂から便利の良い海岸沿いの国道脇垣の浦に石祠が下されたようである。しかし一時流行ったお参りも昭和11年(1936)頃には訪れる人も無くなったようである。
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