子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

58. わたしの8月15日

2013年05月05日 | 疎開生活
1945(昭和20)年8月15日は晴天で、朝から強い日差しでした。

これから本土でも戦争になり、いっそう空襲がひどくなるということが言われていました。夏休みになると母屋の土地を借りて防空壕をとうちゃんと掘りはじめました。
家から百メートルくらい離れた竹やぶの斜面に横穴を掘りつつありました。ここは阿蘇火山帯の凝灰岩で、鍬で掘り岩のかけらは、ざるで外へ運び出しました。岩と言っても柔らかく、作業はしやすかったです。凝灰岩は当時はわが市にも櫟野石(いちのいし)と言って、石を切り出していました。今は八女の石灯籠が有名です。

15日の朝、鍬とざると湯を沸かして入れた土瓶を持って、作業中の防空壕に行きました。
午前中いっぱい作業して、昼食に帰りました。

一休みしていると、伯母さんところの養子のよっしゃんが来ました。
「おっつあん、戦争は終わったですバイ」
「……」
「ひる、放送のあって天皇陛下が言われたですケン」

それを聞いてとうちゃんもわたしも力が抜けてしまいました。
午後また防空壕つくりを続けるつもりで鍬とざるは置いてきましたが、それを取りに行く力もなくなりました。
そのあとはタタミにごろごろして過ごしました。

鍬とざるは何日かして取りに行きました。

その後作りかけの防空壕がどうなったかは知りません。