子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

57. 空襲

2013年05月02日 | 疎開生活
家の前で騒がしい声がするので出てみると、山の向こう(生まれた町)が火事のようです。それも大規模の火災のようです。
「空襲やろ」
暗闇の中でだれかが言っています。

これは後でわかったのですが、昭和20年6月17日の深夜から18日午前1時ごろにかけて、市の中心部が被害を受けた空襲でした。

夜の空襲はもう1度、7月26日から27日にかけてやはり深夜に、諏訪川と堂面川にはさまれた市街地のほとんどが破壊され、焼き払われました。
このときも夜中でしたが、見ていました。真夏でもブルブル震えていました。

この2回の空襲では幸いにも生家は焼けませんでした。

被害に遭ったのは、終戦のわずか8日前、8月7日の昼ごろの空襲によるものです。この日17機のB24が工場地域を空襲しました。
そのときの爆弾1発がわが家から10メートルくらいのところに落下しました。そのためわが家のかわらは落ち柱は傾きました。

物的被害はあとでなんとかなりますが、とうちゃんのいとこは赤ちゃんを背負って昼の用意をしていました。そこへ爆弾の爆風が襲い、即死だったそうです。背中の赤ちゃんは幸い無事でした。子どものとうちゃんからずーつと後で「牛乳はないときだったし、もらい乳も出来ないし、育てるのに苦労しました」と聞きました。

*空襲のとき、被害などは「大牟田の空襲を記録する会」の記録によりました。