似た言葉があるものです。
「人の顔」もそうで、自分は似ていると思っているのに他人はぜんぜんそう思わなかったり、自分は似ていないと思っているのに他人は似ている、というのと同じでしょうか。
別に対抗心からそうするのではなく、自然発生的にそうなるものです。尤も「それを強調し過ぎると、奇妙な対抗心」を惹起(じゃっき)させますが・・・・・・。
結局、「自分の目の付け所、特徴付けるものと思っているところ」が異なるので、こういった食い違いがおこるのでしょう。悪くすると自分の非を顧みないまま、人と人との対立、国家間の対立にまで発展しそうです。
私は「ブルキニ・ブルキナファソ」がそうならないよう祈っております。
似てますね、「ブルキニ・ブルキナファソ」。
ブルキニ = ブルカ + ビキニ
ブルキナファソ:西アフリカにある国。
イスラム教では
女性が顔や体を布で覆い隠さねばならないようで、同じイスラム教国でも、その程度にずいぶん大きな違いが見られます。ただし度が過ぎると人物を特定できないことが多く、犯罪防止の観点からは問題があります。
イスラム教国では戒律が厳しすぎるため犯罪が起らないか、起ってもわずかなので、もみ消すのでしょうか。
「ブルキニ」というのは
「ブルカ」着用の習慣を持った女性が海水浴で着用する「ビキニ」のようなものらしいのですが、「ブルキニ」を着用しているとすぐにイスラム教徒だとわかりイヤガラセを受けたり襲撃されるとのことです。これを防ぐため、「ブルキニ」着用を禁じている国があります。しかしブルキニ着用禁止が「表現の自由を損なう」として反論する人もいます。
そもそもイヤガラセや襲撃の自由を放置するほうが、もっと深刻なゆがみであり「人を攻撃する自由まで認める」わけにはいきません。暴力革命を肯定する共産主義は、こうして滅びていきました。
人を攻撃する自由を制限した上でのブルキニ制限ならば意味があるのでしょうが、もしもそれをしないで単にブルキニを禁止するのならば、表現の自由を尊重する人たちのほうに分がありそうです。
自由を守るために制限が必要なのかどうかは普遍的な主題のようで、結局は「単独で自由を叫ぶ」ことはできず「社会の状況に合わせて制限が発生する」でしょう。
アメリカ:何も制限なく自由という恐ろしい放任社会
フランス:自由を守るために自由を制限する弾圧国家
とにかく
異国へ出て初めて「異教・異教徒」に接することが多いイスラム教徒が、出先のキリスト教国でなおかつ「イスラム教の戒律を守らねばならない」とする義務に違和感があります。
異文化が混在しても構いませんが、互いに尊重しあうべきであり、「異国でも自分の戒律を守らねばならない」とこだわることには賛成できません。
もちろん「イスラム教が国教である自国で戒律を守る」のは構いません。
しかしそういうイスラム教徒を受け入れないとやっていけない国があるのもまた事実であり、むしろそれが根本的な問題なのかも知れませんが、どこかに落としどころがありそうです。
とにかくこのまま宗教対立を激化させないようお願いします。
ブルキナファソ 武装集団、仏大使館と陸軍本部を襲撃:毎日新聞2018年3月3日
アフリカでみられる暴動をみていつも思い出すのが、中国でみられる暴動です。
けっしてテロや暴動を扇動する意図はありませんが、先進国がそういった国を支援するとしても結局それは一部の為政者へのワイロに過ぎず、テロ犯罪者からすれば、そういった「先進国が腐敗した為政者に肩入れすること」が許せないのでしょう。いわば内政問題へ外国が介入したととらえるのです。
なぜ先進国がそうした為政者を支援するかですが、「たとえ暴力的であっても、なんとかその国を支配している」のが魅力的なのでしょう。しかし支援している国が「テロ支援国家・テロ国家」にまで発展すれば、すぐに手を引く狡猾さもあります。
ヨーロッパの先進国が、中国を支援するのも似ているような気がします。つまりあの暴力的な中国人たちを、「たとえ暴力的であっても、なんとかその国を支配している」中国共産党が魅力的なのでしょう。
しかし、ここが大切なところですが、先進国が必ずしも「中国の独裁体制を好感しているわけではない」のでした。
さてさて、皆様はどう思われますか。