カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

「礼」と「儀」

2015年03月01日 00時35分07秒 | アジア

韓国の「2本の柱」

・・・・ある集団、社会が存続するためには、2本の柱が必要です。

その社会の構成員たちの内側から自発的に出てくる「主観的な柱」と、外側から構成員たちに強制力を行使する「客観的な柱」のことです。前者は寛容や配慮などで、人それぞれ少しずつ違います。急激には変えられません。精神や思想の中にあり、余程のことでなければ強制性はありません。後者は法律などで、共通で、均一で、例外なく強制的に適用されます。文書化されていて、新しく作ることも変えることもできます。

「柱」と書いたのは、社会構成員の内外からなるこれら「制御力」こそが、社会を「支える」からです。実はそう別々に考えるべきではないかもしれませんね。礼儀を「」と「」に分けた考え方とでも言いましょうか。あてる漢字がどうであれ、確実なのは、どちらか一方の柱だけでも崩れてしまうと、制御力を失うと、その社会はオシマイということです。

片方、または両方の柱が崩れてしまった社会とその構成員たちは、問題点を認識し、立て直しのために見事に頑張ることもなくはないですが、ほとんどは、立て直そうとはせず、崩れた現状を誤魔化そうとします。宗教の暴走、独裁者の登場、などなど、人類の歴史上、その例えになれる事件はいくらでもありましょう。

:P.26-27 シンシアリー「韓国人による恥韓論」扶養社扶桑社2014年6月10日初版第7刷発行


上のシンシアリーの考えと一致しているかどうか分りませんが、私が自分なりに分りやすく図にまとめると、次のようになりました。

もしも世界を見渡すならば、日本が上に近く、韓国が下に近い、と言えましょうか。

  • 理想としては、自分が相手に対して敬意と謝意をもち、自分は社会の一般作法をもつ。そうすると回り回って、相手も自分に対して敬意と謝意をもつようになる。
  • 現実としては、自分はもたないが、「相手が自分への敬意と謝意をもたねばならない」とし、自分はもたないが「相手が社会一般の作法をもたねばならない」、とする。つまり自分には「礼」も「儀」も、どちらも備わっていないし、また備える必要もない、と考える。

ですから

一言で「礼儀」と言っているのですが、何のことはない、

自分は「礼儀」をもたず、周辺に「礼儀」を求める

これが韓国の実情であって、なんとなく分ってきましたね(笑)。

「韓国社会に道徳(モラル)がない」、だけでは理解できなかったことが、だんだん見えてきたやうに思ひます。

いくたの歪(ひず)みをかかえながらも

「礼儀」を重んじたはずの儒教朝鮮、というのが一般的な見方でしたが、現在の朝鮮半島全体では、その「礼儀」の意味が、このように、大きく変ってきたのでした。つまり自分勝手に「礼儀」の意味を書き換えてきたのでしょうか。まことにご愁傷様なことでごぜーますだ(笑)。

韓国の暴走は

  • 「日本にたいして特に顕著」という特長がありますが
  • 他の外国に対しても変わらない

らしい。

ひどいもので決して容認できないことですが

1992年に米ロサンゼルス暴動というのがありました。これにも様々な側面があるようで一言では言えませんが、韓国系の多くの商店が、その店主の差別性ゆえに黒人たちの暴動対象になった、と聞いています。

いくらアメリカに協力した「韓国のベトナム戦争帰還兵に認められた米国への移住特権」といえども、20年前の韓国人には、すでに礼儀がまったくなかった、と証明しています。

このように私が、韓国人たちの「無頼(ぶらい)」さを述べているのは、けっして韓国人たちを貶(おとし)めようとするからではありません。

たとえ韓国人たちが、偽善的に「善」を演じていると信じ、日本人を貶めるのに快感をもっているとしても、それと同じような低レベルで話をしているのではありません。

↑ このあたりが日本人の私が韓国人と大きくことなるところ(笑)。

そうではなく私は、韓国人や中国人の言動の意味と民族性を考えることで、私たち日本人、ひいては人類そのものを、より深く理解できると思っているのです。

  • 日本各地にモンキー園〔その1 その2〕があり、霊長類研究所なるものも存在しますが、そんなものを研究して何の役に立つのかと不審に思っている人が、きっといるはずです。
  • しかしこれは、あくまでも人間自身を理解するための研究だったのです。私たちが、自国の歴史のみならず、諸外国の歴史を学んだほうがいいとするのは、そこなんですね。外を知ることで、内なる自分をより深く知ることができるものです。
  • これは子供が、自宅に閉じ困っていた時期から小学校という「小さい社会」へ進学することによって、外の社会を知り自分の家庭のことをより深く理解できるようになる、のと何ら変りません。より上の学校へいけば普通は、より視野が広まるものです。
  • この視点が、韓国人や中国人に最も欠けています。それは当然で、自分が一番「正」「善」なのですから、自分を理解しようとするなど意味が分らないし、また反省するなどあり得ず、歴史から学ぶ必要もなく、従って学術も、そして普遍的な芸術さえも、発達するはずがないのでした。
  • その反動か韓国人たちは、自分のことを棚に上げて、同じ国のどの他人に対しても、また他国にさえも反省を要求し、「相手に向って要求している」はずが、なんと「自分自身の欠点をあからさまに叫ぶ」という醜態を演じてしまうのです。
  • いつの日にか、韓国や中国に、少しでも日本や外国を、自分の利益のためだけではなく、そのありのままを、知ろうとするいう気運が生まれるならば実に喜ばしいことですが・・・・これはあり得ないことで「夢のまた夢」なのでせうか(笑)。

このように「礼儀」が崩れてしまった韓国が暴走するのには、充分な根拠があったのですね。


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