インドネシアのキリスト教会で自爆か
教会で自爆、2容疑者死亡 日曜礼拝後、20人負傷―インドネシア:時事 2021年03月28日21時15分
インドネシア 自爆犯は親IS組織メンバー 警察発表:afp 2021年3月29日 4:37
「自爆」という言葉には、様々な響きがあります。
少し古くなりますが、次のような記事がみられました。
アフガニスタンで増加し続けている自爆テロ事件で、実行犯の6割以上が身体障害者だったことが、カブール大学医学部のルサフ・ラドガリ准教授(32)の調査でわかった。障害者の多くが地雷や不発弾の爆発で手足を失った住民とみられ、武装勢力タリバンが、社会的弱者の障害者を自爆犯として利用している実態が明らかになった。:2008年10月20日2時30分
タリバンやISなどはとんでもない連中で、身体障碍者を、邪魔者扱いし、または邪魔者扱いする風潮を利用し、彼らを自爆犯として利用してきたようです。
そもそも宗教の多くは、自殺を咎めていますが、アフガニスタンで増えているらしい自爆には、このような事情があったのです。
インドネシアといえば、イスラム教。我が家の古代遺跡には・・・・
イスラム教におけるブタ(豚)のタブー。これもイスラム教以前からの習慣がコーランのなかにとり入れられて文章で固定されたために、機械的にイスラム教とともに広がった。本来ブタを食べていたインドネシアにも広がっていった。・・・・
中国人にとってブタは大切な食糧であるから、中国人のイスラム教徒は、一人で旅行すると肥えるが、二人で旅行するとやせるという話があり、ブタ肉を取りあげられた中国人の複雑な心境をのぞくことができる。:P.212 鈴木秀夫「森林の思考・砂漠の思考」NHKブックス
中国人のイスラム教徒が旅をするのに
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- 一人なら肥え
- 二人なら痩せる
こういう笑い話は、まるで某国の瀬戸際外交のようですね。どことは言いませんが、読者は察しがついていると思われます・・・・
監視の効かない「一人旅」なら肥え、監視しあう「二人旅」ならば痩せるとは、豚肉に対する中国人の葛藤をそのまま表しているのでしょうね。
先にもちょっと話しましたが、沖縄本島の国頭村(くにがみそん)ではつい最近まで、土地は個入所有でなく村の共有だったため、地主・小作関係も貧富の差もなかった。そういうところでは、集団の歌はあっても個人で歌う歌がなかった。
一方同じ沖縄でもかなり占くから地主・小作関係ができ支配階層ができていたところでは、集団の歌と並行して個人の歌う歌がかならずある。原始共産制のようなところから社会階層分化が起こるあたりで、だれかえらい人が一人歌をうたえばみんなかそれに耳を傾けなければならないというシチュエーションが、集団のなかに生じてくるのですね。
インドネシアでも同じことかあるのです。バリ島では農地は個人の所有ではなく村の共同所有になっている。したがって村人は、多少の階級制度はあるけれども平等です。お金がどこかから入ってもみんな村のものになるわけです。たとえば出演料を払ってケチャを演奏してもらっても、払ったお金はケチャの先生に入るのではなくて村に入るのです。またケチャの音楽が始まったら、普段ケチャを教えている先生も特別の役割があるわけではなくて、全体のなかの一員になってしまう。そしてみんながチャッチャッ・チャッチャッいいながら、そういうものが煉瓦のように組み合わさって一つの音楽ができる。こういうのは地主・小作関係のある社会ではできない芸能なんです。
同じインドネシアでもジャワ島のほうに行くと階層分化が進んでいて、人間にはすべて貧富の差、家柄の軽重の差、年齢の長幼の序が明確にあって、言葉づかいも礼儀作法も、そういう人間関係で変わってくる。だれは家のなかのどこまで入れるかということも、こまかく決まっている。そういう社会でガムラン音楽が生まれている。楽器のそれぞれに個性があって、お互いに相手を侵すようなことがなく、相手を見ながら調子を合わせていくという、非常にデりケートなバランスのなかで音楽ができている。:P.188 小泉文夫 團伊玖磨+小泉文夫「日本音楽の再発見」講談社現代新書
さてさて、皆様はどう思われますか。