加藤紘一さん(自民党代議士)の『強いリベラル』(文藝春秋)を読みました。
「(働く人が)憲法で定める『健康で文化的な生活』がいとなめるように、休日の取得や長時間労働の規制が現行法制で定められているのです」といったことや、「一九九六年の衆議院選挙から始まった小選挙区制度…の導入が良くなかった」といったことなど、共感できることも多々あります。
ただ、小泉内閣までの「自民党は、どちらかというと無自覚に、アメリカの要求する「市場化」の政策をとりいれてきました。私もそのひとりです」といったことや、「労働の格差がなぜ生じたかと言えば…どんな職業でも派遣労働を認めるようにしたため」というのはそのとおりですが、「そのことの社会に及ぼす影響がこれほどまでに破壊的なものであるということに私は無自覚でした」といったことを、「強いリベラル」が自覚的に乗りこえられるのか、疑問は残ります。
「教育」について語る章で加藤氏は、「蒸留水のような環境のなかで教育をされている」エリート層を問題にし、こうした人間を生み出す社会は「柔軟性や革新性にとぼしくなってしまう」と言っています。
そして、「収入がある家庭」で「誰もが入れるわけではない」私立の学校を「小学校から入学し、大学までエスカレーターであがってきた人」と指摘されている安倍首相は、辞任を表明しました。
辞めるときにもあいかわらず国民の声など聞こえないかのようです。