都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「夏の奈良大和路の古刹・遺跡を巡る」 後編:甘樫丘・飛鳥寺・石舞台古墳
前編:室生寺に続きます。飛鳥地方の古刹と遺跡を訪ねてきました。
飛鳥時代、日本の政治や文化の中心であった奈良県明日香村一帯は、今も豊かな自然が広がっているとともに、歴史的文化財が数多く残されています。
明日香村への玄関口は近鉄線の橿原神宮前駅、及び飛鳥駅で、両駅より村の広域を周遊するバス「赤かめ」が発着していました。バスは甘樫丘、飛鳥大仏、石舞台古墳の他、高松塚古墳などを経由するルートを走行していて、主要な観光スポットをほぼ網羅していました。
先に訪ねた室生寺から近鉄で橿原神宮前に着くとお昼を回っていました。駅構内で食事を済ませて東口から「赤かめ」バスに乗り、まずは飛鳥の玄関口でもある甘樫丘を目指しました。実のところ飛鳥へは20年前にも一度、レンタサイクルを使って広く巡ったことがありましたが、今回はややタイトなスケジュールだったため、バスを利用してコンパクトに回ることにしました。
橿原の市街を抜けて明日香村へと入ると、人家もまばらとなり、長閑な田畑の広がる光景が見えてきました。しばらくすると正面右手に緑に囲まれた小高い丘、つまり甘樫丘が姿を現しました。
バスを降りて案内図に従いながら甘樫丘を登る遊歩道へと進むと、木々の生い茂る中、低い階段の連なる小径が続いていて、思っていたより勾配がきつく感じられました。20年前に飛鳥を訪ねた際は、丘の手前まで行ったものの、結局登ることがなかったため、今回が初めての甘樫丘散策となりました。
甘樫丘は飛鳥時代に権勢を振るった蘇我蝦夷、入鹿親子が、かつて麓に邸宅を構えたとされていて、今も所在こそ確定されていないものの、丘を開発した遺跡も発掘されています。そもそも甘樫丘は東に飛鳥を従えつつ、西に畝傍山から奈良盆地を俯瞰し得る要所で、実力者蘇我氏が手中に収めていたのも何ら不思議ではありません。
やや霧雨の交じる蒸し暑い気候の中、樹木の匂いを感じつつ、汗を拭きながら階段を上がっていくと、甘樫丘展望台に到着しました。
丘の北側に位置する甘樫丘展望台は大変に見晴らしが良く、大和三山から藤原京、遠くは金剛山系までを望むことができました。また目を転じれば飛鳥寺を含めた明日香の集落も眺められて、入鹿の首塚までも肉眼で見られました。
しばらく奈良の景色を楽しんだ後は、丘の南方に位置するもう1つの展望台、川原展望台へと立ち寄って、丘の上から見下ろせた飛鳥寺へと向かいました。
川原展望台より飛鳥寺へ歩くとまず目にするのが、寺の西側に位置し、田んぼの中に寂しげに立つ蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔でした。645年の乙巳の変に際し、飛鳥板蓋宮で殺害された入鹿の首が飛んできた地点とされていて、塚自体は鎌倉時代か南北朝時代の頃に建てられました。
もちろん板蓋宮と首塚は600メートル以上も離れているため、あくまでも伝承に過ぎませんが、しばし首塚を拝みながら古代史上最大の政変に想像を膨らませました。
飛鳥寺は596年、蘇我馬子の発願によって創建された日本最古の本格的寺院で、当初、塔を中心に東西と北に金堂を配し、外側に回廊を張り巡らせた壮大な伽藍を有していました。しかし平安時代と鎌倉時代の2度にわたる火災によって焼失し、さらに室町時代以降に荒廃しましたが、江戸時代に入って再建されました。現在に創建当初の威容を思わせる伽藍はなく、小さな本堂を中心にひっそりとした佇まいを見せています。
とは言え、本尊の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏は、火災で大きな損傷を受けて後補を受けているものの、609年に造られた往時の姿を一部にとどめていて、アーモンド型の目や面長など、神秘的な飛鳥仏の特徴を目の当たりにできました。
この他、本堂には平安時代中期から後期の阿弥陀如来坐像も安置されていて、あわせて同地で出土した瓦なども見学することができました。
お寺を出た後は、明日香村でも随一の観光スポットでもある石舞台古墳を目指しました。「飛鳥大仏」バス停より「赤かめ」に乗り、岡寺前を抜けて坂道を走ると、休憩施設や茶屋や土産店も並ぶ石舞台地区へと到着しました。
石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室を持つ古墳で、7世紀の初め頃に築かれたものの、早い段階で墳丘が剥がされたと考えられていて、巨大な石室のみが露出した姿で残されました。
石室の長さは19メートル、また玄室は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルあり、調査によって大小30数個、総重量2300トンにも及ぶ花崗岩で築かれたことが明らかになりました。また諸説あるものの、ちょうど天井部分が平らで舞台のようにも見えることから、石舞台と名づけられました。
石舞台は四方から近寄って見学できる上、玄室の中へと立ち入ることも可能でした。ぐるりと回って外観を眺めると確かに舞台のようにも思えましたが、まるで猫か犬のような動物が伏せている姿にも見えなくはありませんでした。
玄室の中に入ると、石の隙間から差し込む光が思いの外に眩しく映ると同時に、巨大な天井石をはじめとした石そのものの重量感がひしひしと感じられました。またひんやりとした空気にも満たされているからか、心なしか涼しくも思えました。
被葬者は明らかではないものの、巨大な石室からしても相当の実力者であることは推測されていて、現在は蘇我馬子であったとする説が有力となっています。とすれば墳丘が失われたのも、乙巳の変による蘇我氏の滅亡と関係があるのかもしれません。
さて今回の飛鳥周遊では、甘樫丘、飛鳥寺、石舞台と蘇我氏に関した史跡を巡りましたが、さらにもう1件、蘇我氏との関係も推察される遺跡を訪ねることにしました。
それが7世紀ごろに築かれ、甘樫丘南西部の橿原市域に位置する菖蒲池古墳でした。石舞台古墳より飛鳥駅方面行きの「赤かめ」バスに乗り、川原寺などを経由して野口バス停で降りると、雲行きが怪しくなって大粒の雨が降ってきました。この日は朝から雨が降ったり止んだりの天候でした。
野口バス停から歩いて古墳の方へ向かうと、小さな「菖蒲池古墳」の案内看板が見えて、石碑の立つ墳丘へとあがってみました。一帯は特に歩道なども整備されることなく、ほぼ住宅街の裏山といった様相を呈していました。
菖蒲池古墳は一辺が30メートルの方墳で、墳丘は2段で構成されていて、玄室には極めて珍しい家形の石棺2基が収められていました。今は建屋で覆われていて、入口の柵の隙間より実際に石棺を見ることもできました。
古墳の被葬者については議論があるものの、当時としては大きな墓域を有することから、隣の小山田古墳を蘇我蝦夷、そして菖蒲池古墳を蘇我入鹿とする説も存在するそうです。
土砂降りの中、何とも裏寂れた古墳を見ていると、不思議と蘇我氏の繁栄と没落の歴史が頭に浮かんでなりませんでした。この後、足元がびっしょり濡れながら岡寺駅まで歩き、京都へ戻るつもりでしたが、最後に入鹿関連で少し気になる場所があったため、大和八木駅で一度降りることにしました。
その気になる場所とは、全国で唯一、蘇我入鹿を神体とする入鹿神社で、駅より歩いて10分強ほどの飛鳥川を渡った住宅地の中にありました。
入鹿神社は廃普賢寺の南東部に建っていて、元々は同寺の鎮守社として伝わってきました。本殿は江戸初期の頃に築かれたとされていて、老朽化が進んだことから、1986年に解体修理が行われました。
神社の伝えでは、この近辺は蘇我氏にゆかりがあり、入鹿が幼少期を過ごしたとも、母が身を寄せたとも言われていて、今も周囲には曽我などの地名が残されています。
明治時代、当時の史観より逆臣の蘇我入鹿を祀る神社は相応しくないとして、祭神や社名を改めるように政府から要請されたものの、地域の人々が拒んだとも言われています。
蘇我入鹿は頭脳明晰だったとされているため、地元では学業成就の神として信仰を集めているそうです。また乙巳の変により首をはねられたことから、首の上の病に霊験があるとも伝えられています。
隣には15世紀に建てられ、国指定重要文化財でもある大日堂が風格のある姿を見せていました。あいにくの天候ゆえに誰もいませんでしたが、境内は手入れも行き届いていて、近隣の人達に大切にされている印象も見受けられました。
入鹿神社で手を合わせ、再び雨の中を橿原神宮前駅へと歩くと、18時をゆうに回っていました。朝から奈良に入り、室生寺を訪ねては飛鳥へと移動して蘇我氏の足跡を辿りつつ、入鹿神社へお参りした旅も終えて、特急に乗っては京都へと戻りました。
「飛鳥寺」
拝観時間:9:00〜17:30 *10月〜3月は17時まで。
拝観料:大人・大学生350(320)円、高校・中学生250(220)円、小学生200(170)円。
*( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「飛鳥大仏」下車、すぐ。
「石舞台古墳」
休日:年中無休
時間:8:30~17:00
料金:一般300(250)円、高校生以下100(50)円。
*( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村島庄133
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「石舞台」下車、徒歩3分。
「入鹿神社」
拝観料:無料
住所:奈良県橿原市小綱町335
交通:近鉄線大和八木駅南出口より徒歩10分。
飛鳥時代、日本の政治や文化の中心であった奈良県明日香村一帯は、今も豊かな自然が広がっているとともに、歴史的文化財が数多く残されています。
明日香村への玄関口は近鉄線の橿原神宮前駅、及び飛鳥駅で、両駅より村の広域を周遊するバス「赤かめ」が発着していました。バスは甘樫丘、飛鳥大仏、石舞台古墳の他、高松塚古墳などを経由するルートを走行していて、主要な観光スポットをほぼ網羅していました。
先に訪ねた室生寺から近鉄で橿原神宮前に着くとお昼を回っていました。駅構内で食事を済ませて東口から「赤かめ」バスに乗り、まずは飛鳥の玄関口でもある甘樫丘を目指しました。実のところ飛鳥へは20年前にも一度、レンタサイクルを使って広く巡ったことがありましたが、今回はややタイトなスケジュールだったため、バスを利用してコンパクトに回ることにしました。
橿原の市街を抜けて明日香村へと入ると、人家もまばらとなり、長閑な田畑の広がる光景が見えてきました。しばらくすると正面右手に緑に囲まれた小高い丘、つまり甘樫丘が姿を現しました。
バスを降りて案内図に従いながら甘樫丘を登る遊歩道へと進むと、木々の生い茂る中、低い階段の連なる小径が続いていて、思っていたより勾配がきつく感じられました。20年前に飛鳥を訪ねた際は、丘の手前まで行ったものの、結局登ることがなかったため、今回が初めての甘樫丘散策となりました。
甘樫丘は飛鳥時代に権勢を振るった蘇我蝦夷、入鹿親子が、かつて麓に邸宅を構えたとされていて、今も所在こそ確定されていないものの、丘を開発した遺跡も発掘されています。そもそも甘樫丘は東に飛鳥を従えつつ、西に畝傍山から奈良盆地を俯瞰し得る要所で、実力者蘇我氏が手中に収めていたのも何ら不思議ではありません。
やや霧雨の交じる蒸し暑い気候の中、樹木の匂いを感じつつ、汗を拭きながら階段を上がっていくと、甘樫丘展望台に到着しました。
丘の北側に位置する甘樫丘展望台は大変に見晴らしが良く、大和三山から藤原京、遠くは金剛山系までを望むことができました。また目を転じれば飛鳥寺を含めた明日香の集落も眺められて、入鹿の首塚までも肉眼で見られました。
しばらく奈良の景色を楽しんだ後は、丘の南方に位置するもう1つの展望台、川原展望台へと立ち寄って、丘の上から見下ろせた飛鳥寺へと向かいました。
川原展望台より飛鳥寺へ歩くとまず目にするのが、寺の西側に位置し、田んぼの中に寂しげに立つ蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔でした。645年の乙巳の変に際し、飛鳥板蓋宮で殺害された入鹿の首が飛んできた地点とされていて、塚自体は鎌倉時代か南北朝時代の頃に建てられました。
もちろん板蓋宮と首塚は600メートル以上も離れているため、あくまでも伝承に過ぎませんが、しばし首塚を拝みながら古代史上最大の政変に想像を膨らませました。
飛鳥寺は596年、蘇我馬子の発願によって創建された日本最古の本格的寺院で、当初、塔を中心に東西と北に金堂を配し、外側に回廊を張り巡らせた壮大な伽藍を有していました。しかし平安時代と鎌倉時代の2度にわたる火災によって焼失し、さらに室町時代以降に荒廃しましたが、江戸時代に入って再建されました。現在に創建当初の威容を思わせる伽藍はなく、小さな本堂を中心にひっそりとした佇まいを見せています。
とは言え、本尊の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏は、火災で大きな損傷を受けて後補を受けているものの、609年に造られた往時の姿を一部にとどめていて、アーモンド型の目や面長など、神秘的な飛鳥仏の特徴を目の当たりにできました。
この他、本堂には平安時代中期から後期の阿弥陀如来坐像も安置されていて、あわせて同地で出土した瓦なども見学することができました。
お寺を出た後は、明日香村でも随一の観光スポットでもある石舞台古墳を目指しました。「飛鳥大仏」バス停より「赤かめ」に乗り、岡寺前を抜けて坂道を走ると、休憩施設や茶屋や土産店も並ぶ石舞台地区へと到着しました。
石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室を持つ古墳で、7世紀の初め頃に築かれたものの、早い段階で墳丘が剥がされたと考えられていて、巨大な石室のみが露出した姿で残されました。
石室の長さは19メートル、また玄室は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルあり、調査によって大小30数個、総重量2300トンにも及ぶ花崗岩で築かれたことが明らかになりました。また諸説あるものの、ちょうど天井部分が平らで舞台のようにも見えることから、石舞台と名づけられました。
石舞台は四方から近寄って見学できる上、玄室の中へと立ち入ることも可能でした。ぐるりと回って外観を眺めると確かに舞台のようにも思えましたが、まるで猫か犬のような動物が伏せている姿にも見えなくはありませんでした。
玄室の中に入ると、石の隙間から差し込む光が思いの外に眩しく映ると同時に、巨大な天井石をはじめとした石そのものの重量感がひしひしと感じられました。またひんやりとした空気にも満たされているからか、心なしか涼しくも思えました。
被葬者は明らかではないものの、巨大な石室からしても相当の実力者であることは推測されていて、現在は蘇我馬子であったとする説が有力となっています。とすれば墳丘が失われたのも、乙巳の変による蘇我氏の滅亡と関係があるのかもしれません。
さて今回の飛鳥周遊では、甘樫丘、飛鳥寺、石舞台と蘇我氏に関した史跡を巡りましたが、さらにもう1件、蘇我氏との関係も推察される遺跡を訪ねることにしました。
それが7世紀ごろに築かれ、甘樫丘南西部の橿原市域に位置する菖蒲池古墳でした。石舞台古墳より飛鳥駅方面行きの「赤かめ」バスに乗り、川原寺などを経由して野口バス停で降りると、雲行きが怪しくなって大粒の雨が降ってきました。この日は朝から雨が降ったり止んだりの天候でした。
野口バス停から歩いて古墳の方へ向かうと、小さな「菖蒲池古墳」の案内看板が見えて、石碑の立つ墳丘へとあがってみました。一帯は特に歩道なども整備されることなく、ほぼ住宅街の裏山といった様相を呈していました。
菖蒲池古墳は一辺が30メートルの方墳で、墳丘は2段で構成されていて、玄室には極めて珍しい家形の石棺2基が収められていました。今は建屋で覆われていて、入口の柵の隙間より実際に石棺を見ることもできました。
古墳の被葬者については議論があるものの、当時としては大きな墓域を有することから、隣の小山田古墳を蘇我蝦夷、そして菖蒲池古墳を蘇我入鹿とする説も存在するそうです。
土砂降りの中、何とも裏寂れた古墳を見ていると、不思議と蘇我氏の繁栄と没落の歴史が頭に浮かんでなりませんでした。この後、足元がびっしょり濡れながら岡寺駅まで歩き、京都へ戻るつもりでしたが、最後に入鹿関連で少し気になる場所があったため、大和八木駅で一度降りることにしました。
その気になる場所とは、全国で唯一、蘇我入鹿を神体とする入鹿神社で、駅より歩いて10分強ほどの飛鳥川を渡った住宅地の中にありました。
入鹿神社は廃普賢寺の南東部に建っていて、元々は同寺の鎮守社として伝わってきました。本殿は江戸初期の頃に築かれたとされていて、老朽化が進んだことから、1986年に解体修理が行われました。
神社の伝えでは、この近辺は蘇我氏にゆかりがあり、入鹿が幼少期を過ごしたとも、母が身を寄せたとも言われていて、今も周囲には曽我などの地名が残されています。
明治時代、当時の史観より逆臣の蘇我入鹿を祀る神社は相応しくないとして、祭神や社名を改めるように政府から要請されたものの、地域の人々が拒んだとも言われています。
蘇我入鹿は頭脳明晰だったとされているため、地元では学業成就の神として信仰を集めているそうです。また乙巳の変により首をはねられたことから、首の上の病に霊験があるとも伝えられています。
隣には15世紀に建てられ、国指定重要文化財でもある大日堂が風格のある姿を見せていました。あいにくの天候ゆえに誰もいませんでしたが、境内は手入れも行き届いていて、近隣の人達に大切にされている印象も見受けられました。
入鹿神社で手を合わせ、再び雨の中を橿原神宮前駅へと歩くと、18時をゆうに回っていました。朝から奈良に入り、室生寺を訪ねては飛鳥へと移動して蘇我氏の足跡を辿りつつ、入鹿神社へお参りした旅も終えて、特急に乗っては京都へと戻りました。
「飛鳥寺」
拝観時間:9:00〜17:30 *10月〜3月は17時まで。
拝観料:大人・大学生350(320)円、高校・中学生250(220)円、小学生200(170)円。
*( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「飛鳥大仏」下車、すぐ。
「石舞台古墳」
休日:年中無休
時間:8:30~17:00
料金:一般300(250)円、高校生以下100(50)円。
*( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村島庄133
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「石舞台」下車、徒歩3分。
「入鹿神社」
拝観料:無料
住所:奈良県橿原市小綱町335
交通:近鉄線大和八木駅南出口より徒歩10分。
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