嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

どんな奇跡も日常の中に隠れるように笑う。

2007年06月25日 04時27分03秒 | 駄文(詩とは呼べない)
人は「生」と「死」の間を揺れ動いているわけでもなければ
「生」から「死」へ向けて落下しているわけでもない.
人は流動の中にあって「日常」と「死生観」のはざまで揺れている。

そもそも人が「死生」に近づくのは
急激な【形】の変化によるもの。
羊水の海でたゆたう胎児である時の環境から、
流転する空気の現実たる異界へ旅立つ事によって
出産の瞬間には、限りなく死へ近づく。

例えば恋愛のような性との出会いも
異文化における外人との出会いも
形の急激な変化を求められ、
それは死生に近づく。

けれどもまた、もっとも重要なのは、
食物を食べる事、薬を飲む事、水を飲む事、呼吸をする事
そういった、口からの摂取が
ずいぶんと無意識に多く影響を与えている。

物体にぶつかる時の急激な物理変化も、
やっぱり形の直接的な変容として死生に近づく。

真空中で、無重力状態で、人が受精を行ったら
それは死へと近づくだろうか?
生へと近づくだろうか?

言葉によるある種の馬鹿馬鹿しさは、
記号のもっとも源泉的な性質は、
【記号】が『変化』を拒んでいる事にある。

曹洞宗(?)の坊さんは気難しい顔をして
「人は二度死ぬと言われている」と言った。
一度目は肉体による死
二度目は周りの人たちが全部忘れてしまったときの死
だそうだ。

残念ながら僕は宗教の類は一切信じていないので
輪郭を区切る参考程度にしかならなかったけど、
人が死生観に近づくのはたった二回では無いと思う。

出産の瞬間に胎児は死ぬ。
人へは生まれ変わっている
食事や呼吸によっても人は死ぬ。
1日に死滅する細胞の数が、個体の身体全部のうち、たったの二百分の一であるはずもない。
考える事によっても人は死ぬ。
脳細胞は、呼吸するだけでも死ぬ。
考えれば死ぬ、感じれば死ぬ。
価値観の喪失によっても人は死ぬ。

あまりにも日常的な死の中で、
何故か人の死だけが僕の中で特別な位置を占めている。
人類全体が、もうすぐ死ぬと、はっきりわかっていても、なお。

地球が生きていても、死んでいても。
星が生きていても、死んでいても。
銀河が変化しても、浮かぶように考えていても。
それでも宇宙は死ぬ。
宇宙が自殺する事は、とても悲しい奇跡。
たった一つしか真実が無いという矛盾は、
その奇跡のような完全性は、美を生み出さず、何も殺さない。
だけど残念ながら宇宙は完璧ではない。
謎に満ちているし、矛盾を包含している。
生と死の間に、謎の中間を作り出す事ができるのはわかる。
そこに名前を付けることもまた、そんなに難しいことじゃない。
日常と、死生観の間に、はざまでゆらぐ光のオーロラを見る事も、
その帯を編む事も、そんなに難しいことじゃない。

物理法則が、ほんの短い時代に束縛された道理でしかないことも、
ほしの呼吸を知らない僕らの浅はかさでしかないことも、
そんなに難しいことじゃない。

超越は時間を超える
矛盾や迷いは時間を作り出す。
人が悩む限り、自分の時間を得る事は、そんなに難しい奇跡じゃない。

だけど僕は。
それでも僕は。
ここで、宇宙が自殺する日を感じてる。
どうしようもないほど、生まれる事のできない星の胎児を、
銀で出来た砂時計を、光を吸い込む血の一滴を、
濁った黒光りする鉄の味を、
僕は感じてる。

冷たく小さな鼓動がゆっくりと彼らの呼吸を追い越して
ずっとずっと永遠に近い呼吸になっていく
みんなみんな、違う周期で動いてる
だれもがみんな、違う奇跡の中で、自分を乗り越えて、
生み出そうとしている。
宇宙の殻を破って僕が出生を叫ぶ日は来ない。
僕の矛盾は、もっと小さな波動の中にあるから。
ほんの小さな子供が、やけっぱちの中で叫んだ、
手がかりひとつくらいの、小さな時間しかないから。

残り少ない。
僕の未来は、残り少ない。
いつもそのことを思う。

君に出会うことの偶然は、きっとその中に日常に数えられてしまうだろう。