嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



言ってることはだいたいわかる…
けど、割り切れない事があるのも事実で

やめますって言ってからやめるなんてのはどう考えてもヘタレだから
そんなもの放置とか無視でいいんじゃね?
という態度も当然と言えば当然なんだけど。

だけど、それだけじゃ済まない何かはあると思ってるし
それってよく僕が考えてるやり方、
小学校のクラスメートではどうか?
というケースパターンなんだけど、
クラスメートがある日突然学校に来なくなったら、
やっぱりその事の責任は無いにしても
加害者意識はあってしかるべきなんじゃないかと思ったりする。

べきと書いておきながら
別に義務でもなんでもないんだけど
少なからず何かを思う事ってのは
無視とは多少なにか違うんじゃないかと淡い期待のような
いや期待って事もないんだけど
なにかそう、割り切れない寂しさの拳みたいなのがあって
その拳で誰かを殴れない以上、
やっぱりそれは僕が立ち去るという事に繋がっていくんじゃないのか?

ということ。

結局は加害者だ被害者だとおおざっぱな二つくらいのグループに
がつッと分けて
そんでまたそこで分けた後で
その分けてしまった事について
分けられた立場から
なんのかんの叫んでみたって
それはいじめ問題で言えば
いじめ側に立った傍観者と同じで
いじめられた側に立った傍観者は、
じゃぁ何にも悪くないし、何にも反省しなくて済むから
僕はいじめられ側の傍観者に立ってみます、
というんじゃ単なる逃避か何かに見えてしまうし

そこで「単なる逃避」と書いてしまった僕も
やっぱり切り捨て側心理で動いてるから加害者みたいなもんだし
ずっとぐるぐる考えたって二つに分けたって三つに分けたって
四つに分けたってどれだけ考えたって
そこに何の気持ちも込められていないのなら、
やっぱりそれは何にもしてない沈黙の加害者って事じゃないかと

自分の罪に怯える。

更新を休止して放置するってやり方はあった。
それはやっぱり真ん中ら変の複雑な感情を産んだ。
それが
「ベストではない、ベターをえらべ」って生き方に
そういうやり方に、近づいていないってことにも
僕の思考は寄っていった。
そしてまた逆に、じゃぁやめないで停止する事が
僕にとってのベターなんじゃないかって、
そんな風に無理に思ってみたりとか。

そしてまた考える
「立ち去る」って行為は、なにかにとって、
誰かにとって、大きなお世話だったり、
おしつけだったり、おせっかりだったりするような、
心理的なアクセスなんでしょうか?

「教えて下さい」
ってタイトルで、なっがい人生の疑問をひたすらぶつけた
広辞苑みたいな本を出せば、
それで読者がなんか答えてくれるんだろうか?
じゃぁそれで僕は偽名や匿名なんかで、
著者不明の状態で本を出した場合、
読者はそこでどうすんのか。
そこで新しい作者に変わるのか。

たぶん、変わらないんだと思う。
思いは通じない。
気持ちは決して伝わらない。
だけど書く事はやめられない。

消えてしまったとしても、
何かを書き続けたとしても、
それで何かを選んだ事にはならない。
決して人を救った事にはならない。
それでも僕はたぶん、書かずには居られないっていう
そういう我慢できなさ、に似た行為じゃないかと思う。

振り上げた拳に、ふるえる指先に、
自分を殴る事のできない勇気に、
言霊が宿っている、
そんな。 気がする


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