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news commentary

つり球、くせ球、ビーンボール

2007-11-03 15:20:08 | Weblog
日本が小選挙区比例代表並立制を始めたのは1996年の総選挙からだ。それまでの中選挙区制から小選挙区制に移行することへの反対を押し切っての実施だった。そのうえ、同一人物が小選挙区で落選しても比例区で敗者復活が可能というおまけつきでもあった。

ともあれ、小選挙区制導入の最大の理由は、自民党による半永久的な支配から、民主政治の約束である健全な政権交代のシステムをつくろうということにあった、と国民は説明を受けた。

そこで出来上がったのが、現在の国会での与野党の勢力配置である。与党は自民党と公明党の連立で、野党は民主党と、共産党など微小政党。二大政党制の形が見えてきたところだ。

野党第一党の民主党は自民党をはみ出した議員と社会党に見切りをつけた議員など、自民党以上に党内構成要素が複雑であるが、主力は自民党に近い。現在の小沢代表は父親のあとを継いで20代で自民党代議士になり、田中角栄や金丸信から“日本型ムラ政治”の手ほどきを受けてそだった古い世代に属する。

そういうわけで、現在の自民党と民主党は、政権交代に備えて、はからずも保守勢力が一軍と二軍をつくったようにもみえる。話が跳ぶが、シンガポールでは建国以来、人民行動党の一党支配が続いている。かつてシンガポールの政治の資料を読んでいて、「シンガポールが民主政治を行っている証拠として、政権交代をやってみせる必要にせまられる時代が来るかもしれない。そのときに備えて、人民行動党を2分して与党と野党にすることも念頭においておく必要がある」という趣旨の発言を党指導部の発言を面白く感じたことがある。

話を日本の自民党と民主党に戻すと、相撲でいえば剣が峰にたっている自民党の福田総裁からの大連立構想についての党首会談に小沢民主党代表がうかうかと乗り、福田からの提案を党に持ち帰って検討する、と発言するところまで進んだのは、なぜだろうか? 

数年前、小沢の自由党と民主党の合併話で、当時の鳩山民主党代表が党内から批判にさらされて辞任したことがあった。それでは、合併話は流れたのかと思っていたら、民主党の代表が菅に代わって間もなく、まるで55年体制のイミテーションのような自由・民主の保守合同が実現した。

理念よりも現実にひかれ戦略より戦術にたけた小沢がいま参院選での戦術的勝利でうぬぼれの絶頂にあるのを利用して、福田は、シンガポールの一党独裁に近いような大連立による保守完全支配の体制づくりを、本気でねらったのだろうか。

まさか。福田もこの話はけられるものと予想しつつ、自ら言うように「背水の陣内閣」の首相として、けられてもともとの気分でやってみたのだろう。話が壊れたとき、後遺症がより大きいのは福田より小沢の方だろうし、自民党より民主党の方だろう、と読んでいたにちがない。

保・保大連立にその気を見せたと受け止められかねないようなそぶりを示した小沢は、今後、民主党内での批判にさらされることになるだろう。民主党自体も、党内左派と右派の軋みが強まることになろう。民主党全体が政党としての未熟さを選挙民にさらしてしまった。

結果として、福田が小沢を利用して野党民主党にクサビを打ち込んだ。ネガティヴ・キャンペーンの日本的陰謀ヴァージョンのようにもみえるこの寸劇、福田の方が小沢よりも役者が一枚上だった。

(2007.11.3)



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