孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

反抗心と懐疑心

2015年11月04日 | 日記
久しぶりに朝食を忘れるほど新聞記事を夢中で読んだ。

新聞記事というのは、曽野綾子氏の『透明な歳月の光』という名のコラムで、これは毎週楽しみに読むコラムだ。

今朝のコラムの見出しは、「ただでお菓子」のわびしさ、というもので、直感でハロウィンのことだなと理解できた。

ハロウィンの騒ぎは曽野氏の住む静かな町にも及んだようだが、『 ハロウィンのばか騒ぎを苦々しく思う人も多かった。』という。それは、『・・ただで子供たちにお菓子をもらわせようとする卑しい魂胆の見える親達がいたからだ・・・』そうだ。



今年の私は、もし近所の子供たちが変な格好で家に来たら、「くだらない毛唐の真似事などやめて、家のお手伝いでもしろ!」と言って追い返すつもりであった。カミさんがいたら発狂して怒るだろうが、私は本気だった。

幸いにもウチの近所ではああいう卑しい親達はまだ発生していないようで、気配すらなかった。



曽野氏のコラムは最後にクライマックスを迎える。『世間の潮流に対する反抗心と懐疑心は、甘い菓子を作る時の塩味のように必要なものだ。それがなければ、肝心の甘みもうまさも出ない。』

続けて、『世間で評判のラーメン屋なら、並んででも食べるという行為を一概に悪いとは言わないが、いつも人の評判で物を考える癖をつけると、自分はどう考えるのか、自分の好みの生き方はどうなのか、根本の姿勢までわからなくなる。』と言い切る。

私も、並んででも評判のラーメンを食べるのを非難する気はないが、私には逆立ちしても出来ない芸当であることは確実だ。



『子供に夢を持たせ、遊ばせ、幸せな気持ちにすることが悪いのではない。しかし、親たちまで扮装をし、子供にできるだけたくさんお菓子をもらわせようとしているのを見るのはやはりわびしい。』

コラムはこう締めくくって終わるが、曽野氏は随分と気分を押さえ込んで書かれているなあ、というのが率直な読後感であった。

昔どこかで読んだ曽野氏のファンになるきっかけとなった「犬にチョッキを着せるバカ」という題のコラムと比べての話だ。