
私が今までの経験のなかで痛感したこと・・・

社会的信用は
信仰深さ、とは無関係。
人望や人徳と信仰心とも無関係・・
幸運・不運とも無関係。

仏教には膨大な数の仏典が存在してます。
一説には7千巻の経典があると言われています。
親鸞聖人が
膨大な数の経典のなかで、
特に重要視した仏典
大無量寿経
(だいむりょうじゅきょう)
という経典があります。
この経典には
『疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)』
と・・云う言葉が記されています。
「疑城胎宮」とは、
「城のように殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界」
という意味だそうです。

仏を信じる・・
神を信じる・・
立派な心掛けであると思います。
しかしながら、「立派な心掛け」自体には
大きな意味は感じません。

重要であると思うからです。


即ち・・・
「信じる」と自分に言い聞かせている背後には、
「疑う心」がある。
「砂糖は甘い」と・・信じる努力をするひとはいない。
「自分の子供はカワイイ」と信じる努力をする人はいない。
なぜなら、「疑っていないら」信じる必要などない。

仏を信じる・・
神を信じる・・
その正体とは・・・・・
神仏を信じているのではなく
「自分の理性を信じる努力をしている」
と言いう事になる。
「自分の理性」の前提には
「自分の都合」があるのみ。
即ち・・・
信仰深い人、神仏を信じている!!
と力説するようになってしまうと
これこそが「大無量寿経」の説く、
『 疑城胎宮(ぎじょうたいぐう) 』
(殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界)
から抜け出すことが困難であると言わざるを得ない。

いままで、疑城胎宮に
閉じ込めらたお方を何人か見てきました。
立派な心掛け・・・立派な理論・・・
でも・・・何かが???オカシイ・・・

「善人より悪人の方が救われるチャンスが多い」
親鸞聖人はこのような趣旨の言葉を多く発しています。

歳を重ねる毎に、
親鸞聖人の真意が理解できる
ようになったような気がします。
親鸞聖人こそ、
宗教史上最大の正直者であるとい思っています。
だからと言って、親鸞聖人の教義が全であり、
万能であるとは思ってはいません。

私は、数年前、
ある出来事を通して、
あることを痛感しました。
それを機に、
神仏を信じる事を辞めました。

神仏に任せる決意をしました



これが私の念仏です。
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