
一番の不幸とは、
自分を見失う事である。
絶好調なときも、
あるかもしれないが、
自分を見失うと、
暗闇に引きずり込まれる。
そういう不幸な人はたくさんいる。
宗教の真の目的とは、


事にある。
「目に見えないモノを見る」
とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像
として見るという意味ではない。
もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、
自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、
「 真実 」ではない。
神仏の声など聴く事はできない。
もし聞こえたら、それは幻聴・・・
私の場合、そのようなことが起きたら、
まず第一に、自分の感覚を疑い、
自分の耳を疑い、
そのあと、意識のスイッチをオフにします。

何かを語った

このようなお話も、
99%は潜在意識が為せる、脳内現象。
願望を記憶に変換した潜在意識のイタズラである。
若しくは、苦し紛れの創作か
記憶の捏造である。

先に述べた、「 見る 」とは、
「 観る 」 = 「 静観する 」
という意味である。
「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。
「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、 心で観る
たとえ、目の前が、
辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・
その背後にある、「 見えないもの 」を
見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、
権利を放棄した事になる。
目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、
最高にして、最大の幸福を観る。
他者との比較ではない、
「 自分が全て 」なのだ。
「目に見えるもの」
これのみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。
生まれつき虚弱なひともいれば、
強靭な人もいる。
生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。
五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。
誰かが言うでしょう・・・

おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・
なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか
その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・
「 目に見えないもの 」
が存在するのです。

誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!
詭弁をいうな!!!
ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・

しかしながら、
理論的な判断だけではどうにもならないのが、
‘ この世 ‘ なのです・・・
そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、
人生が「 徒労 」となってしまう。
目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは






これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。


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