名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

善良な人を加害者にしては申し訳ない

2023-08-02 | 思う事


 自分が被害者となることは
視点を変えれば、
自分が加害者でもある・・・



最近、ふと子供の頃の記憶がリアルに蘇った・・

子供の頃、たぶん小学校1年生くらいの時
の体験だった。



母親に連れられて、
近所の八百屋に買い物に行った。

買い物を終えて、母は、
私より5秒位先に店から出た。

店の前は一方通行の道だった。

幼い私は、母親を追いかけて、全速力で店から勢いよく
飛び出した・・・



どうしてそんな勢いで飛び出したかは記憶にないが、
駈けっこのスタートのような勢いだった。

私が飛び出した瞬間、



キィーーーー



自動車のブレーキ音が響いた・・

間一髪のところで車は私の前で停止した。

幼い私は、何が起きたかも理解できず、
その場に呆然と立つ尽くしていた。



停止した車から人が降りてきた。
動揺した様子で運転手は声をかけて来た。

「だっ・だっ・・・大丈夫???」

 うん、大丈夫・・

運転手は安心した様子で言った・・
「あ・・・よかった・・ごめんなさいね・・・」



母親が
血相を変えて私の前に走ってきた・・

一瞬の出来事ではあったが、
母親は、このとき起きたことを
近くから見ていて状況を把握していた。

母親は、運転手に対して、
開口一番言った・・

 すみません!!!!

私が飛び出した速さは
物凄い勢いだった・・



こんな状況で子供が飛び出した来たら、
車のスピードが
例え低速であっても、
ぶつかってしまう可能性は高い。

もし、ブレーキを踏むのが0.1秒遅れていたら、
私はひかれていただろう。



その場合、私は大怪我をしていただろう。
運が悪ければ死んでいたかも知れない。

車が人を引いたら、
理由はどうれ、、
自動車を運転していた人間に責任が課せられる。

いや!!!
もし、仮に、運転者が法律的に無罪となったとしても、
「人を殺してしてしまった」と
いう大きな汚点を与えてしまうことになる。
この十字架を背負って生きてゆかなければならない・・・

幼い私は、
理由はどうあれ、
もう少しのところで善良な人を
犯罪者にしてしまうところだった。

限りなく不可抗力であっても、
法律上は運転者の「前方不注意」となってしまう。

「良心」と云う視点で見れば、

 自分の不注意で善良な人を
犯罪者にしてしまった 

という事にもなる。

この場合、自分に対して思うことは、

 自分が被害者となることは
自分が加害者でもある 


これはあくまでも、
「私自身の問題」に関する
「私自身に対する戒め」であり、
私以外の人間や、
事故に遭われた方や、
事故を起こした方に対して思うことではありません。

事故に遭ったひと、起こしたひと、
それぞれの事情がおありになると思うので
私がとやかく言う立場にはありません。



今となっては、
幼い時のことで、
「何事もなくて良かった・・」
で済まされることかもしれませんが、

今の自分の事を
よく考えてみれば、

この時の体験が私の意識に今でも
大きな影響を与えているように感じます。



道路を歩くとき、
車を運転するとき、

 自分のドジで、
善良な人を加害者にしては申し訳ない 

その「想い」の延長として、
思うことは・・・

「自分がイイ人になりたい」と云う動機のみで、
「物分かりがイイ人」を演じることは、
結果として相手に罪を犯させることなる。 



・・・親鸞聖人の御言葉・・
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。










コメント
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