禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

どんなくだらない平和であっても戦争よりまし

2022-12-18 18:52:24 | 政治・社会
 一昨日(12/16)国家安全保障戦略などの安保3文書の改訂が閣議決定された。中国や北朝鮮を名指しでその脅威を謳っている。そして、解釈次第で「反撃能力」という名の先制攻撃を敵基地に与えることもできるようになったらしい。明らかな憲法違反である。言うまでもなく憲法は政権への歯止めとしてあるのである。その歯止めを無視して政策を推し進めようとするそんな政府を大半の日本国民は許容しているように見える。悲しいことだが、現在の日本の立憲主義とか民主主義というのは単なる空念仏以上のものではないらしい。

 野球の日本代表はサムライ・ジャパンと呼ばれている、サッカーの方はサムライ・ブルーである。そういう所から見てもやはり日本人は武士道精神というものに誇りを持っているのだろう。私自身は武士も武士道もあんまり好きではないが、それなりの敬意を持たれる理由は理解できる。武士は武士道という理念の為には利害得失を考えずに殉じるからである。しかし現実の日本は口先だけの建前をとなえる成り行き任せの国でしかない。軍隊を持つのならば先ず憲法9条を改訂すべきだっただろう。それが憲法はそのままで解釈改憲を積み重ね、とうとう専守防衛の建前までかなぐり捨てているのに、口先ではいまでも専守防衛だと臆面もなく言う。

 以前からこのブログを読んで下さる方はご存じだと思うが、私は護憲論者である。それで若い人たちに「お花畑か」と言われたりもする。はじめはなんのことか分からなかったが、「お花畑で夢想している」という意味らしい。しかし、私は自分では十分リアリストであると思っている。リアリストであればこそ、自分自身の手で人を殺す覚悟が出来ない以上戦争を肯定するわけにはいかないのだ。自由と正義のために命を懸けて戦うというのは崇高な精神だが、どちらも我が方が正義であると思っている。いざ戦闘になれば、どちらも闘争本能のかたまりになって、正義もへったくれもない血なまぐささに覆われる。

 ウクライナの戦争について言えば、戦争はプーチンの邪悪な野心から始まったことには違いないが、プーチン体制が崩壊しない限りロシア側が軍隊を引き揚げることは考えられない。徹底的にウクライナ側が抗戦すれば、ウクライナ国民の苦しみと被害は大きくなるばかりである。言うなれば、この戦争ではいたいけない子供達が人質に取られている。その人質が寒さと恐怖に震えている中で、自由のために徹底的に戦うことが本当に正義なのかと問われているのである。とにかく停戦の為の妥協点を見出すことに全力を注がなくてはならないと思う。

  「どんなくだらない平和であっても戦争よりまし」 

 それが77年前に日本人が骨の髄から学んだ教訓である。平和憲法はアメリカから押し付けられたと考える人が多いようだがそうではない、多くの日本人がそれを受け入れたからこそ日本の国是として今日まで維持されてきたのだ。マッカーサーは「日本を東洋のスイスにする」と確かに言ったが、もともとアメリカ側にそのような強い意向があったわけではない。1950年に朝鮮戦争が勃発してからはむしろ日本の武装化に躍起になっている。それも日本の防衛というよりもアメリカの世界戦略に資するためである。その目的のためにA級戦犯を開放し、統一教会や勝共連合を通じてプロパガンダを行ってきた結果が今回の防衛費の大幅増額として結実したわけである。陰謀論じみていると取られるかもしれないが、日米安保の地位協定、返還されない横田空域、在日米軍における米兵給与以外のほぼ全面的な経費負担など、我々の知らぬ日米関係の秘密がなければ説明できないことが多すぎる。今では岸信介元総理がCIAのエージェントであったことが明らかになっており、1950年代から60年代にかけてCIAから自民党に対して数百万ドルが援助されていたことが、1994年にニューヨークタイムズによってすっぱ抜かれている。 

 なにを言いたいかと言うと、私たちの知らないところで陰謀がうごめいているということである。私たちが自発的に感じていると思っている「外国の脅威」もプロパガンダによって醸成されたものである可能性がある。日本が防衛力を増強すればそれだけアメリカが儲かることは確かであるが、日本が安全になるというのは幻想だと思う。こちらが増強すれば相手も必ず増強する。結局は際限のない軍拡競争になり、より緊張が増すばかりでリスクはさらに大きくなるだろう。

 なんにしても、国是を変更するのならばそれなりの大論議が必要なはず、姑息な解釈改憲を積み上げて憲法をこれ以上ないがしろにするのはやめて欲しい。
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こんなことでええのか?

2022-12-15 11:38:11 | 政治・社会
 NHKの調査によれば防衛費増額に対する賛成は55%、それに対し反対は29%だという。その他の調査でも国民の大半は増額に賛成であるとの結果がでている。しかし、ちょっと理解しがたいのが、その財源としての増税には90%以上の国民が反対だという。(参照~>「夕刊フジ」)  外国の脅威を現実的なものと受け止めているのなら、増税反対どころではないのではなかろうかと思う。防衛力は必要であるが、それに必要な経費の負担を自分はしたくない。まるで他人事である。

 おそらく人々は「自分は外国の脅威を感じている」と言葉の上だけで思っているだけで、そこにはリアリティなどないのだと私は考える。もし、他国のミサイル攻撃にリアリティを感じているなら、それが原子力発電所に命中したらどうなるかを想像しなければならない。そういうことを抜きにして防衛力増強などといくら主張してもその真剣さは疑わしいと私は考える。Jアラートなどとまるで戦時中の空襲警報のような大仰な警報鳴らしても、それはおそらく「日本はいまただならぬ状況下にある」という雰囲気づくりでしかない。要するに戦争ごっこをしているだけで、そこに本当の真剣さを感じられない。
 
 そもそも「なぜ防衛費がGDPの2%なのか」という根本的な議論が欠けている。現状でも日本の軍備は英仏並みなのである。これで何が足りないのか、それより根本的にはGDPの2%の防衛費で日本は本当に安全と言えるのかということがある。2%を達成したら次は「3%ならより安全になる」と言い出しかねないような気がする。1960年代の終わり頃だと思うが、防衛庁は「日本ハリネズミ論」という防衛理論を標榜していたと記憶している。ハリネズミは小さくて弱い動物だが、それを攻撃しようとすれば攻撃する側も多少痛い思いをする。だから強い動物もあえて針ねずみを襲おうとはしない。日本もハリネズミにならって必要最小限の小さな針としての防衛力を備えようという理論である。防衛費がGNPの1%に到達していない時代の話だ。
 
 それがいつの間にか、「敵に攻撃される前に敵基地をミサイルで攻撃する」というような話になっている。正気か!と言いたい。こちらが先に敵基地を攻撃しても「専守防衛」だなどと無茶苦茶言っている。まじめな議論をしているようにはどうしても見えないのだ。いつの間にか日本ハリネズミ論どころかすでに専守防衛論からもはるかに逸脱してしまっている。この安倍政権が登場してからというもの、今までの自民党政権が積み重ねてきた政府見解さえ一切無視しているように見受けられる。もはや日本政府には原則とかプリンシプルとかいうものは一切ない、ご都合主義もいいところである。

 なぜGNPの2%なのか、その理由は実ははっきりしている。アメリカの兵器を爆買いしているからである。それも近年は、F35戦闘機、オスプレイ、水陸両用車「AAV7」など衛費増額に対する賛成は55%、それに対し反対は29%だという。その他の調査でも国民の大半は増額に賛成であるとの結果がでている。しかし、ちょっと理解しがたいのが、その財源としての増税には90%以上の国民が反対だという。(参照~>「夕刊フジ」) 外国の脅威を現実的なものと受け止めているのなら、増税反対どころではないのではなかろうかと思う。防衛力は必要であるが、それに必要な経費の負担を自分はしたくない。まるで他人事である。

 防衛費は増額するが増税しないとなると結局国債頼みとなるのは間違いない。国債を打ち出の小づちだと考えているようだが、その咎が問われる日はそう遠くないだろう。防衛力を増強しながら凋落していく日本を眺めなくてはならないのが辛い。

 
大量に発行された「大東亜戦争割引国債」は文字通りの紙切れとなってしまった。
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流れ圜悟

2022-12-14 10:37:42 | 雑感
 先日上野の国立東京博物館に見学に行こうとして果たせなかったことを記事にした(参照=>「久し振りの東京見物」)が、それは「流れ圜悟」というものを見てみたいと思ったからである。 それは一体何かと言うと、宋の禅僧である圜悟克勤(えんごこくごん)が弟子の虎丘紹隆(くきゅうじょうりゅう)に与えた印可状 であるという。印可というのは師家が弟子に与える禅における免許皆伝のようなもので、師が自分と同等以上の悟境に到達したと認めた場合に初めて与えられる。禅僧はこの印可状を与えられてはじめて師家として後進を指導することができ、年齢にかかわらず「老師」と呼ばれるようになるのである。

 圜悟克勤という人は日本臨済宗にとってはとても重要な人物である。まず、禅をかじったことのある人なら誰でもその名を知っている「碧巌録」の編纂者であることと、中国から日本に伝えられた臨済宗のほとんどが圜悟克勤-虎丘紹隆の法統であるということである。例外は建仁寺を開いた栄西と由良興国寺を開いた心地覚心のみである。栄西と心地覚心の法統は既に絶えてしまっているので、現在における日本臨済宗の僧侶はすべて法統的には圜悟克勤の児孫である。(参照==>「臨済宗法統図」

 その印可状が「流れ圜悟」と呼ばれる所以については、「 桐の筒に入って薩摩(鹿児島県)の坊ノ津海岸に漂着した 」というおよそあり得ない話が言い伝えられている。そしてこれが禅僧の墨蹟としては最古のものだという。それが最古の墨蹟であるなら筆跡を比べる資料もないはずで、どうしてそれが圜悟の手によるものだと分かるのだろうという疑問がわくが、国宝に指定されているからにはきっと何らかの根拠のあるものなのだろう。

 ちょっと引っかかるのが、これが完全な印可状ではなくて半分だけだというのである。どういういきさつがあったかはよく分からないが、この印可状が大徳寺から堺の豪商の手に渡った。このころ墨蹟は茶の湯の道具として重要な位置を占めるようになっていたらしい。それで伊達政宗がそれを是非にと所望したので、古田織部の手でそれを2つに裁断して、後半部分を伊達政宗に譲ったらしい。現存しているのは前半部分で、伊達家に渡った後半部分はいまのところ所在不明となっている。一枚の証明書を2つに分けて茶室に飾るというのは無粋な感じがする。一流の芸術家でもある古田織部ならそんなことをしたくなかったはずだ。伊達の強引な要求に抗しきれなかったのだろうか。その後、前半部分は松江藩主の松平不昧公の手に渡り、不昧公の子孫から国立博物館に寄贈され現在に至っている。

 松平不昧公はこの墨蹟を手に入れるために、当時の所有者である堺の祥雲寺に対し金子千両を与え、その上毎年扶持米三十俵を送ることを約束した。簡素を旨とする茶の湯の贅沢さに目がくらみそうな話だ。


The River Oriental 2006 (記事内容とは関係ありません。)
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人は必ず死ぬ?

2022-12-11 09:54:29 | 哲学
 今年はいつもの年に比べて喪中はがきが多く届く。先日2軒隣に住んでいた私と同じ歳の方が亡くなられた。以前はよく街で出会う人が最近はあまり顔を見ないと思っていたら、実は亡くなられていたという話を耳にした。同級生の訃報もぽつぽつと入ってくる。日本人の平均寿命は男性が81.47歳、女性が87.57歳だという。私は今73歳だから、ざっと見てあと10年以内に同世代の男性は半分くらい死ぬのだろう。男性は70歳を越えればいつ死んでも不自然ではないと言える。

 私自身自分が遠くない将来に死ぬのだろうと思っている。しかし、私が自分の死の意味を知っているのかどうかということには問題がある。私たちの知っている「死」の概念はあくまでも客観的な死または生物学的な死、心臓が止まり脳波がなくなり動くこともしゃべることもしなくなる、そういう死である。そういう事態を今まで見てきたので、いずれ自分にもそういうことが起きるのだろうと想像しているのである。つまり、他者の目から見て、私にもそういうことが起きると想像している。それはいわば客観的な死、他者としての死を自分の上に重ねているだけである。

 なにごとも経験してみないと分からない。ところが私は死んだことがないので、私が死んだらどういう事態が出来するかについてはなんらの知識も持ち合わせていないのである。睡眠を死に例える人もいる。人は眠ると意識がなくなり不活発になるという点では死に似ていると言えなくもない。が、決定的に違うのは睡眠には覚醒が伴うが死にはそれがないということである。眠りから覚める過程では実はいろんなプロセスが起こっている。そんないろんなものがまじりあった感覚をから、純粋な無意識を抽出しようとすることには無理がある。第一、死んだら果して無意識かどうかさえも実際のところは分からないし‥‥。
 
 分からないということは気持ちの悪いことである。私たちの理性はなにごとも合理的に理解したいという強い欲求を持っている。この場合の「合理的」というのは「矛盾がない」という程度の意味である。ところが死後のことについては根本的には何も分からない。だから、適当なことを言ってつじつまを合わせることが出来る。このことが死後の世界についての様々な言説が生まれる原因となっているのである。だから、「献金をすれば死後の世界もハッピーです」というようなことでも、根拠のない前提を信じさせればそこに矛盾はなく、一応「合理的な」説明にはなり得るのである。カルトが栄える理由はそういう所にあるのである。お釈迦様は決して死後の世界については語ろうとしなかった。このことはきちんと覚えておいた方が良いと思う。
 
 言うまでもなく死は生の対極概念である。一般に「生きていない」状態を「死」と呼んでいる。他人の「生きている」状態と「死んでいる」状態についてはわたしたちは理解できる。しかし、私自身について言えば、いつも生きている状態でしかない。実はここに重大な問題がある。現代言語学によれば、「言葉は世界を分節する機能しか持たない」ということになっている。つまり、「生」という言葉は生と生以外を区別する、「死」は死と死以外を区別する、言葉にそれ以上の意味はないというのである。言い換えれば、生があってはじめて死があり、死があってはじめて生があるのである。生と死の概念はその相依性によって成立しているという考えは仏教の教えにもかなっている。重大な問題というのは、私は自分の死について知らないのならば、果たして自分が「生きている」ということの意味を知っているのかということである。

 デカルトは「私は考える、だから私は在る」と言った。このデカルトの言葉に対して、カントは「『考えている私』というものを直観できない」と言った。デカルトが「私が在る」という結論を単に言葉の文法から導き出していると指摘したのである。ここで「在る」は「生きている」と言い換えても良いような気がする。考えたり、感じたりすることが生きていることだろうと考えられるからである。つまり、「考えている私」は「生きている私」のことである。このように考えれば、カントと禅者は己自究明という一点で一致する。

 この「生きている私」とは何かという問題に対して、禅者である趙州和尚はただ「無」とだけ答えた。(参照==>狗子仏性(趙州無字)」 「そんなもの無いよ」と言ったようにも受け取れるし、言い表しがたいものに「無」と名付けたようにも受け取れる。いずれにしてもそれは既に生死とはかけ離れた問題である。

狗子に仏性有りや無しや?
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国民の税金使って、そんなことをやってええのか?

2022-12-10 19:46:09 | 政治・社会
 ツイッターの中を覗いたら、共同通信の「防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導」というニュースが大きな話題になっていた。



 これのなにが問題かという人もいるかもしれないが、本来は番犬であるに過ぎない防衛省が飼い主である国民の税金を使って、国民を無意識のうちに番犬の思い通りに誘導しようとしているということが問題である。
 
 しかし、よくよく考えてみると、こんな研究は以前から実施されていてすでにその効果が表れていると見るべきではなかろうかと思いついた。昔の話をすれば防衛予算がGNPの1%に達する時点で大問題視された。それが今や、なんの根拠も示されず2%という金額目標がまず設定されていることが不思議だ。近年は本当に効果があるかどうかが疑わしいミサイル迎撃システムや1機で100億円以上(いろんな資料を読んでも正確な費用が分からない、一説には一機当たり200億円以上という話もある)もするF35戦闘機を147機も購入するらしい。戦闘機の購入だけで2兆円以上使うという気前の良さ。ひとえに、中国や北朝鮮の軍事的脅威に立ち向かうためには軍備増強は喫緊の課題であるという雰囲気が既に醸成されてしまっている。

 しかし、北朝鮮のミサイル実験に対して、Jアラート鳴らして電車を止める程に現実的脅威とやらを感じているのならば、なぜ原発を止めようとしないのかが理解できない。本当に避難をしなければならないほど現実的脅威を感じているなら、原発にミサイルが着弾するという脅威を先ず排除すべきであることは当たり前の話ではないのか。彼らの言う「現実的脅威」は言葉だけでちっとも現実的ではないような気がする。結局はアメリカの世界戦略にがっちり組み込まれて、その片棒を担がされているだけのことではないのか。しかも、馬鹿高い兵器を言い値で買わされて、アメリカのお財布代わりの存在に成り下がっていることに気がつかないで、「イージス艦を8席、F35を147機も持っているのはアメリカ以外では日本だけだ」とか誇らしげに言っている。

 「防衛省に有利な世論(防衛予算の増額)」、「特定国への敵対心」、「反戦・厭戦気分の払拭」という目的は既にかなり実現しつつあると私は見ている。しかし、いくら軍備を増強しても中国と戦争するという愚は絶対避けなければならない。いずれ中国の国力がアメリカを上回るのは時間の問題だろうし、アメリカには米中全面対決する覚悟があるとは思えないが、万一そういう事態に至ったときにはその時点で日本はもうボロボロになっている。絶対中国と事を構えるというようなことは避けなければならない。反戦・厭戦気分を払しょくしてはならないと思う。
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