禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅はカルトか?

2015-09-07 17:14:26 | 哲学

≪ 戦争や原発事故が起こって 初めて罪が発生するのではない。 戦争前、事故前の平和な時に 何もしないこと、 無関心でいることは 罪を犯しつつあることなのです。≫

ハンナ・アーレントを連想するようなメッセージであるが、臨済宗妙心寺派管長 河野太通老師の言葉である。日本臨済宗の最高指導者がこれほど明確にリベラルな立場を表明するのは珍しいことだ。老師ははっきりと安保法案にも反対しておられる。鎌倉時代から一貫して権力に寄り添ってきた臨済宗にあって、為政者の方針に異を唱えるのは歴史上はじめてのことと言っていいのではなかろうか。

河野老師も戦時中は当然のように軍国少年であったという。国家に身をささげるつもりが、敗戦で生きがいが崩れた。主義主張にとらわれない生きざまを見つけようと、仏の道を志したのだという。しかし、仏教団体も戦中は軍部に加担していたと知り衝撃を受けた。そのことに対するざんげと反省から声を上げねばと思ったのだという。

坊さんは世俗のことにあまり首を突っ込むなという意見もあるが、戦前戦中には日本の仏教界は皇国史観にやすやすと組み敷かれた実績がある。今この時期に仏教者として明確な態度表明しておくのは、河野老師の高い見識のあってのことだと私は思う。

禅語に「随所作主」というのがある。雑念なく真の意味で主体性を持っていれば、それがそのまま真実の境涯である。」というような意味であろう。しかしこれがなかなか難しい。真実の源泉というものは自分の内にしかないというわけだから、なかなか反省というものがしづらく、「泥棒するときは泥棒になりきればよい」というような独断的な考えになりかねない。わずかな私心でも混入していれば、我々の主体性は自由を失うのであるが、なかなか自分ではそれをチェックできないのである。

今私は「禅と戦争」(ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア著)という本を読んでいるのだが、その中で取り上げられている鈴木大拙の言葉を次に紹介する。

≪ 禅とは、武士と永遠の命、正義、神の道、道徳的観念を、必ずしも論じたわけではない。ただ人が一つの結論に達したとき、合理的であろうが非合理的であろうが、直進すべしと励ますのみ。哲学は知識人に安心してまかせればよい。禅は行動取るのみ。決心した以上、最も能率的な行動は、ふりむかず前進するのみ。この意味では、禅こそがまさに武士にふさわしい宗教である。 ≫ (「禅と戦争」114p.)

鈴木大拙が悟道の達人であり、高潔な人物であることは疑わないが、私には上述の言葉はカルトと区別がつかないのである。大義名分さえあれば迷わず人殺しでもすると言っているのである。魂の救済であると信じて、ボアするオウム真理教と同じではないのか?

「禅と戦争」には、井上日召の血盟団事件についても触れている。井上日召は山本玄峰の指導を受けていたのだという。山本玄峰は臨済宗の管長にして、終戦の詔勅「耐えがたきを耐え‥」を進言した人物である。山本老師は弁護人として井上を悟道の面から肯定的に称揚したという。

彼らは、「随所作主」から「天にかわりて不義を撃つ」ことを簡単に導出しているわけだが、真の主体性というものをはき違えているのである。彼らは自己犠牲がそこにあれば即それは純粋な行為、それは真の主体性に基づく行為だとしているのだが、それは浅はかなことのように思える。その自己犠牲という純粋性に陶酔している時点で、すでに時代性に取り込まれているのである。真の主体性は真に自由でなくてはならず、その判断は普遍的でなくてはならない。普遍的であるとは時代や地域に左右されないということ、例えばその人が例えばアメリカに生まれていたとしても、同じ結論に到達できなければならないということでもある。どんな人も聖人ではない、時代やコミュニティの風潮に束縛される。自由ではないのだ。「随所作主」は理想であっても実現は難しい。人は天にかわることなどできないのである。

一般に禅をやる人には不殺生戒を軽く見る人が多いような気がする。不殺生戒の対象はあらゆる生物になるので、現実には実行不可能であることから、意図的にこれから目をそらそうとしているようにも見受けられる。しかし仏教徒であるなら、実現不可能だからと言って無視してよいということにはならない。我々は他者の命を犠牲にしなければ生きていけない。その矛盾が釈尊の出家の動機の一つにもなっているのである。釈尊と同じように悩みながら不殺生戒となんとか折り合いをつける。禅がカルトに陥らないためには、それが必要なことのように私には思える。

井上日召はテロの正当性の根拠として、無門関第14則「南泉斬猫」を引き合いにしていたという。南泉の猫を斬る行為を大慈悲心によるものとして、同様に自分も大慈悲心よって革命(テロ)を行うのだと。彼はこの公案から、猫を斬る名分を読み取ったようだが、その前に南泉に猫を斬らせないという切実な気持ちを持ってほしかったと私は思う。

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