禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

理性と理由

2023-03-04 17:27:27 | 哲学
 「理由」は英語で "reason" というのは大抵の人が知っていると思う。では「理性」を英語で何というかと訊ねられて答えることが出来る人はそれほど多くはないのではなかろうか。実は、「理性」も "reason"  なのである。理性は理由を求めるものであり、理由は理性により求められるものである。明らかに別概念であり、英語の "reason"  はわれわれ日本人から見れば多義語である。多義語というのは使用される文脈によって意味が違うのだが、使用する側はその違いを意識してはいない。例えば、次のような具合である。   

   "reason for the success of ~" (~の成功の理由) 
 "his reason told him that the way was the best " (それが最善であると彼⦅の理性⦆は判断した)

 あなたがレストランで食べた料理がとても美味しかったとする。そして勘定書きを見て、その値段がとても安いと感じたとする。日本人ならそういう場合は「安い」というが、それを英語で "cheap" と言ってしまったら、そこのシェフは気を悪くしてしまうだろう。そういう場合は "reasonable" と言うべきである。その料理はそれだけの対価を払っても十分見合っている、つまりその値段はあなたにとって整合的なものであると貴方の理性が納得したという意味である。
 
 私たちは無意識の内に「どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない」という原理を信じている。ライプニッツはこれに「充足理由律」と名付けた。あまりにも当たり前すぎて、あらためてこれを原理として取り扱うと、かえってなにを言っているのかが分からないと言いたくなる人もいるかもしれない。しかし、それは本当に「当たり前」なのだろうか? この世界にそんな原理が本当にあるのだろうか? 理性は常にものごとが整合的であると納得したがっている。つまり、常に理由を求めているのである。もしかしたらそれは理性の側の事情なのではないか? 理性による整合性に対する渇望を世界の側に投影しているだけではないのか、と考えたのがカントである。彼は、あらゆることを因果関係という枠組み(カテゴリー)を通して見ることをしないと、この世界を把握できないと考えたのである。

 カントはその主著「純粋理性批判」において、人間の理性の限界を示すために4つのアンチノミーというものを提示している。そのうちの第一番目の「時間と空間に関する宇宙の限界」に関するアンチノミーをご紹介しよう。

≪定立命題≫
 世界は時間的な端緒をもち、空間的にも限界によって囲まれている。
≪反定立命題≫
 世界は時間的な端緒をもたず、空間的な限界をもたない。つまり無限である。

アンチノミーというのは互いに背反する命題のことで、上記の定立命題と反定立命題は互いに背反するにもかかわらず、双方とも合理的に説明できるとカントは言うのである。

 世界の時間的な端緒(始まり)について、カントは次のように考えたようである。
≪もし世界にいかなる端緒がなかったとしたら、今までに無限の時間が流れてしまっていることになってしまう。しかし、「無限」とは決して尽きることのない量を意味するわけであるから、既に過ぎ去ってしまっているということとは矛盾する。それ故定立命題は正しいはずである。では逆に、世界の時間的な端緒が存在したと仮定してみよう。だとすると世界が生まれる端緒以前には、なにもない空虚な時間が流れていたことになる。その空虚な時間には何もないのだからどの時点をとってみても、他の瞬間より優先される条件はない。ならば世界が生まれる端緒となるきっかけは生じないはずである。しかし現実に世界は存在しているのであるから、世界は時間的な端緒をもつはずである。

 カントの証明が正しいかどうかはさておいて、彼が言っていることは無限というものがわれわれには手に余るものだということだろう。私たちは平安時代とか弥生時代とかいう大昔の時代については、実際の経験の延長上にある過去として概念的に把握することは可能だが、世界の始まりというような一切の経験から隔絶したものについて合理的に把握しようとしても、仮象を生み出すだけで正しい認識を得ることは出来ない、と言うのだ。その指摘は尊重すべきであるように思う。
 
 このことは仏教における「無記」にも通じることだと思う。例えば、前世だとか死後の世界などというものは完全に私たちの経験とは没交渉のはずである。それをあえて理解しようとすれば、理由に渇望している理性は根拠のない理屈をとり入れるしかなくなってしまう。それで、「前世の宿痾を消滅させるために献金しましょう」などという詐話師の言葉にやすやすと乗っかってしまったりする。この世界が存在することの根源的な理由(それは<私>の存在することの根源的な理由でもある)は存在しないという諦観、それが無記ということである。

大船観音
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