ウィトゲンシュタインの哲学と禅が近しいということはよく言われることである。彼の人物像というのは禅者からは程遠いのだが、その思考から出てくる言葉がまるで禅者が語っているのではないかと思えるようなことが多いのである。
思考し表象する主体は存在しない。 (「論理哲学論考」5.631)
上記の文言については過去記事にても紹介したので説明は省略する。
( 参照==> 「思考し表象する主体は存在しない」 )
今回は「哲学的探究」という書物の中から二つの言葉を紹介したい。
哲学はすべてをあるがままにしておく。 (第124節)
哲学はすべてをただ提示するだけであり、何事も推論しない。----
すべてがわれわれの眼前にあるのだから、説明すべき何事もない。
なぜならば、たとえば、隠されているものには、われわれの関心は
ないからである。 (第126節)
ウィトゲンシュタインと言う人が従来の西洋哲学者とはかなり違った哲学観をもった人物だとうかがえる。元来、西洋思想にとって真理は探究探求するものであった。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、現前しているものこそ真理であり、それをゆがめることなく受け入れることこそが哲学であると考えたのである。この「現前しているものこそ真理」という態度は禅と同じだと言ってもよい。人は言語によって思考する。そこにドクサ(憶見)の入り込む余地がある。ウィトゲンシュタインは、言語というものについて徹底的に追及した人でもあった。