禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

宇宙は無限か? 

2024-06-18 19:43:49 | 哲学
 大抵の人は宇宙は空間的にも時間的にも無限であると考えているのではないだろうか? 実は私もそう考えていた。宇宙に果てがあるとしたらその先はどうなっているだろうと考えてしまうし、宇宙に始まりがあるとしたら始まる前はどうなっていたのだろうと考えてしまう。それはいくら考えてもきりが無い、いくら考えてもその先があって限りがないから「無限」というのだろう。それが無限の字義であるとするなら「宇宙は無限」はまさしく正しいように思える。
 
 しかし、ここで一つ考えねばならないことがある。実際の物理空間としての宇宙に果てがあるかどうかの決定は実際に観測しなければ分からないことであるということだ。しかしよくよく反省してみれば私達が宇宙の果てについて考える時は、結局いつも観念上で考えているだけだということである。つまり、それはいわば「自分の内なる宇宙」を点検してア・プリオリに宇宙は無限であると結論付けていることにはならないだろうか。

 カントは「空間と時間は感性の表現形式である」と言っている。私たちはこの空間と時間の中に位置するものしか認識できないというのである。実はこの「感性の表現形式」というものはユークリッド幾何にぴたりとあてはまる。と言うより、われわれの感性に沿ってユークリッド空間というものが定義されたというべきだろう。問題はこの感性の表現形式たるユークリッド空間と実際の宇宙空間が同一視されていることにある。

【ユークリッド『原論』:5つの公準(公理)】
  • 公準 1任意の2点が与えられたとき、それらを端点とする線分を引くことができる。
  • 公準 2与えられた線分はどちら側にでも、いくらでも延長することができる。
  • 公準 3与えられ任意の点に対し、その点を中心として任意の半径の円を描くことができる。
  • 公準 4すべての直角は互いに等しい。
  • 公準 5ある直線が他の2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さいならば、この2直線は限りなく延長された時、内角の和が2直角より小さい側で交わる。(直線外の1点を通りこの直線に交わらない直線はただ1つある )
 ユークリッドはこれら五つの命題を公準と定めた。それは自明であるから証明なしで公理としたのである。確かにそれは「自明」なのである。ただし、それはわれわれの感性に照らして自明であるという意味である。ユークリッドの五つの公準はカントの云う「感性の表現形式」に沿って定義されているのだから、それも当然である。ユークリッドの第五公準は一般に平行線公理と呼ばれる。平行線はどこまで行っても平行線である。それはわれわれ(の感性)にとっては当然のことであって疑う余地はない。
 
 ユークリッドの五つの公準の絶対的正しさは約2千年もの間自明のものとして信じられてきたのだが、近代になってから第五公準いわゆる平行線公理に対してある種の疑義が生じてきたのである。もしかしたら、直線外の1点を通りこの直線に平行な線が何本も有ったり、逆に実は一本もない。」というようなことが考えうるのではないか? それで、試しに「平行線が一本もない」としたところ、無矛盾な幾何学体系いわゆるリーマン幾何学ができあがったのである。同様にして、第5公準を平行線が2本以上とすればまた別の非ユ―クリッド幾何学が出来ることが分かった。ここにわれわれの感性と理性に微妙なずれがある。感覚的には直線外の一点を通る平行線が必ず1本はあるはず。しかし私たちの論理は直線外の一点を通る平行線が一本もない場合や二本以上ある場合を許容するのである。
 
 以上のことは何を意味するか。私たちが感覚的にとらえている「空間」についてはどのように考えても無限である。ユークリッド空間は一様で連続であるからである。どこまで行っても切れ目というものもなく等質な空間が続いている。どこまで行っても堂々巡りを免れない。しかしここで強調しなくてはならないのは、ここで点検している空間というのはあくまで自分自身の感性の表現形式としての空間、あるいは自分の内なる観念からなる空間とも言うべきものだということである。それは現に実在する物理空間とは別物である。もしかしたら、宇宙はリーマン幾何学で扱うような閉じた空間であるかも知れない。閉じた空間というのはちょっと分かりにくいが、二次元の面に例えるとボールのような球体の表面のようなものである。地球の表面をまっすぐ進んでいけば、やがて一周周って元のところへ戻ってくる。同様にこの宇宙空間が地球の表面のように湾曲して閉じていたとしたら、まっすぐ進んでいるつもりでもやがて元のところに戻ってくるというようなことになるかも知れない。実際のところは分からないが、我々の理性はその論理的可能性(※注)を既に受け入れているし、現代の科学はそういうことを取りざたするレベルに達しているらしい。

 宇宙空間が閉じた空間であるなどとは直感的には受け入れがたいが、しかし我々の理性はその論理的可能性を既に受け入れているのである。もし実際の宇宙空間が閉じられた空間だとしたら、宇宙の果てが実在するということになる。しかし、私達にはその「果て」がどのような構造あるいは状態になっているかを見ることも想像することも出来ないだろう。それは感性の表現形式としての空間からは逸脱しているからである。論理的にそれがあることは想定できても、その物自体としては認識できないからである。

(※注)「論理的可能性」: 論理的に可能というのは厳密な意味においてあり得ないことではないという意味。例えば、円い三角とか「一つの物体が(その物体より)大きな距離を隔てた別の場所に同時に存在する」とか絶対にありえないようなことは論理的に不可能であるという。逆に「豚が空を飛ぶ」というようなことは現実的にはありそうではないが絶対ないとは言えない、このような場合は論理的可能性があるという。一般に、想像したり夢で見たりすることの出来ることがらは「論理的可能性がある」と言ってもよい。

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