禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

意志を意志することはできない

2018-11-06 09:03:28 | 哲学

「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」とウィトゲンシュタインは言ったが、これほど深い洞察の言葉もあまりないのではないかと思う。

立ちたいときに立ち、座りたいときに座る。束縛されていなければ、思うままに体を動かすことができる。それが「自由」という言葉の意味だろう。それで、主観的な観点からすると、無制限の「自由」とは何でも自分の意志によって決定することだと思いがちである。

しかし、よくよく反省すれば、私が手を上げようとしたときは、すでに「手を上げよう」という意志は生まれてしまっている。問題はその意志を誰が起こしたのかということである。その意志を「私」が起こしたと言えるなら、究極の主体は「私」であると言えるだろう。しかし、どこを探しても意志を引き起こす「私」というものは見つからない、私が手を上げようとしたときは既にその「意志」は生まれてしまっているのだから。意志の生じる過程を「私」が承知しているはずはない。

果して、どこから意志が生まれるのか? 究極の主体はなにかと問われたら、趙州従諗和尚なら「無」と答えるのではないかと思う。

(関連記事)狗子仏性(趙州無字)

京都・錦市場にて (本文とは関係ありません)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 超越と実存(南直哉) | トップ | 遺伝子と言葉 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学」カテゴリの最新記事