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きのうは大阪市内に娘を送って行った帰りにいまの時期入園料が無料の天王寺動物園に寄って来た、丁度「戦時中の動物園展」が行なわれていた。太平洋戦争では大阪市も例外ではなくB29による空襲で壊滅的な打撃を受けた。動物園は動物への飼料の確保も難しくなり、また、猛獣などの危険から人々を守ると言う名目で暗黙に薬殺が決められた。戦意高揚に借り出されたかと思えば果ては処分と誠に身勝手なことが実行に移されたのである。
その頃WAKIは国民学校4年生、今では堺市に編入されたがのどかな田舎に家族で疎開した、そうして大阪の大空襲では住んでいた家は被災、すぐ近くの堺市はまるで花火のように焼夷弾で焼け尽くされるのを見て、まだくすぶっている中を歩き、沢山の焼死体も見た、また、艦載機による攻撃も体験した。そういうご時世だから動物どころか自分たちが生きてゆくのに精一杯の時代が続いた、しかし、世の中が平和になり復興が進み一番先にわれわれに希望を与えてくれたのは動物たちであった、インドから戦後はじめて象が贈られて日本中が熱狂的に迎えたのはとりもなおさず平和な世の中だからこそとしみじみ思う。
その頃WAKIは国民学校4年生、今では堺市に編入されたがのどかな田舎に家族で疎開した、そうして大阪の大空襲では住んでいた家は被災、すぐ近くの堺市はまるで花火のように焼夷弾で焼け尽くされるのを見て、まだくすぶっている中を歩き、沢山の焼死体も見た、また、艦載機による攻撃も体験した。そういうご時世だから動物どころか自分たちが生きてゆくのに精一杯の時代が続いた、しかし、世の中が平和になり復興が進み一番先にわれわれに希望を与えてくれたのは動物たちであった、インドから戦後はじめて象が贈られて日本中が熱狂的に迎えたのはとりもなおさず平和な世の中だからこそとしみじみ思う。
門前の加藤旅館に集団疎開して8月15日
終戦(敗戦)をしりました。・ヨカッタ・
3月13日夜の大阪大空襲は西区四ツ橋の
橋の下で家族は川に漬かりで焼夷弾爆撃を
避けて命をとりとめました。
その後、後おいで学童集団疎開生活に合流。
あとの5ヶ月は人生で一番長かったように
想い出します。
あの当時でも4年、5年生の年齢で先輩の
虐めは過酷なもので山陰線の鉄道線路を徒歩
で旅館から脱走し米子駅で保護されました。
・・・・戦争は絶対にいやです!・・・・
孫に昔、日本は戦争で負けたんやでどこの国と戦争したか知ってるかと質問したがワカラン
今の新聞TVマスコミも対戦相手が明記していないのが不満です。
疎開先では果物は沢山ありましたが、大阪での食糧難は筆舌に尽くしがたかったですね。こういうことを考える度に戦争は2度と起こしてはいけないという思いに駆られます。
Montさんは縁故疎開でしたか、もし疎開をしていなければと思うとぞっとしますね、でもその後の食糧難はたいへんでした。