ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)
▼学校的時間と空間
一方的に批判するのは私の趣味ではないが、「学校というところでは、どんな時間が流れているのかなあ」ということがとても気になる。私も消費期限や賞味期限のある話をしたつもりはないけれども、10年前に話したことを、今炊き上がったご飯や年代物の極上のワインのように話すことには抵抗がないわけではない。いや、これは話し手の問題ではなく聞く側により問題があるのだろう。その人たちは多分、話し手の地位や権威まで調味料に加えて美味しくいただくのだろうから。
でも、万人に受けるどんなに素敵な話をされても、あるいは逆に極めて個性的な話をされても、あるいはまた心血を注いだ訓話を語ったとしても、「とっても結構なお味でございましたわ」的なまとめ方をされるならば、そこには保守もなければ革新もない、ただ「別に、どうってことも…」という事なかれ的な時間が流れ続けるだけであろう。おそらく学校というところもそういう時間の流れているところなのだろう。だから、10年前も今も大して変わりもなければ、変換可能なくらいなのだ。
だから、その空間に「ノー」と言って飛び出して行った生徒や死を賭するほど悩みに悩む生徒がいるなどということは、「何かの間違い」で我が子が不登校にでもならない限り(不謹慎な言い方でゴメンなさい)、到底思い浮かぶ事柄ではないのだと思う。
▼「遊びの教育学」と「オリジナル」ということ
「ところで、いったいお前は何を話したんだ?」と聞かれそうである。そう、肝心のことをみなさんにお話するのを忘れていた。それは「遊びの教育学」という話である。そう聞けば、ある人は「何だ、そんなことか」と思ったかも知れない。
10年前と違って、今では幼児教育の園長さんや障害児教育の実践家だけでなく、大学で学生に教えを垂れる立場にいる方まで、本屋や図書館に行けばその実践報告や関係書物が結構目に付くようになった(10年前には、養護教育など、障害児の関わりに焦点を当てたものがほとんどだった)。中には、「遊びでIQ140」なんていうものまである。インターネットでも溢れている。「遊び」の価値がようやく復権されつつあるのかな~とも思う(それでも、まだ「教育」の本質と真正面から向き合ったものは少ない)。
で、ちょっと興味を惹かれて覗いてみると、「あれ~、これは前に自分が言っていたことと…」というようなものもないわけではない。むしろ、市P連に書かれた教頭先生のように礼儀を尽くして連絡をくれるような方が珍しい。でも、自分は売文の徒ではないし、若い頃、「オリジナルとは…、著作権とは…」なんて愚にもつかぬことを考えたこともあるので、普通はあえて目くじらを立てるような野暮なことはしない。
▼「コロンブスの卵」と神話
そう、いつもそうなのだ。「コロンブスの卵」と同じことである。彼はみんなと反対に西へ西へと向かい、アメリカ(西インド諸島)を発見した。「西へ西へ?そんなら俺でもできた」と人々は言ったそうな。そこで、「では、これはどうだ」と言って、コロンブスは卵を見せた。「これを立ててみろ」と。誰も卵を立てられない。横に倒れてしまう。「そんなの立つわけがないじゃないか」。そこでコロンブスは「こうするんだ」と言って、卵の底を割って立ててみせた。すると「何だ、それなら俺でもできる」と人々は言ったそうな。
みなさんも知っているお話だろう。この話と同じである。「人が歩けば道になる」と言うけれども、「道なき原野に道をつける」ことは容易ではないのである。
(後に、この話から今度は「卵は立たない」という神話が生まれたそうな。さらには「立春の日だけ卵が立つ」と言う神話が。が、実は、季節に関係なく、卵は辛抱強くやれば立つのである。何事も実際にやってみなくちゃね)
※お後がよろしいようで(話がエンドレスになりそうです)。
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(文責:ganbarujan)
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