親は子どものパシリ(執事)やメイドになるな(1)…北海道旅行から考えたこと(補遺1-1)
「北海道旅行から考えたこと」を4回連続で書かせてもらったが、実はこれが全てではない。ここでは、旅行中の話ではなく旅行前の話をしてみたい。
▼社会研修のためのお泊り旅行
繰り返しになるが、ぱいでぃあでのお泊り旅行は敢えて修学旅行とは位置付けないし、その趣旨でやっていない。それは一般の社会人の仲間入りをさせてもらって、社会人としての基本的なあり方を学習させてもらい、自分たちがそれを習うための旅行なのである。勿論、旅行という非日常的な営みを楽しみながらのことである。
▼フリースクール活動の理解
だが、残念なことにここの所をよく理解されない方々がいらっしゃる。また、私どものフリースクールの活動をよく理解されないまま入って来られる方もたまにいらっしゃる。いや、最初から理解するつもりなどさらさらなかったのだと言った方がより正確かもしれない。
▼日本を取り巻く教育状況
たとえば、フリースクールでは今でもボランティア的な活動を行なっているところが多いが(では、「何のためにボランティアを?」と問われれば「自分のため」とでも応えるしかないが、今はビジネス目的で参入するところが多いようだ)、だから、参加される方には“出来るだけ”「フリースクールを共に創っていく」ことをお誘いする。ところが、残念なことに、何事も金という世の中の反映か、「費用を払っているんだから、後はお任せ」(進学塾と勘違い?)とか、「我が子が少しでも問題になることがあれば…」と、クレーマーとかモンスター・ペアレンツの役割だけはしっかり果たそうと構えている人がないわけではない。そういうタイプの人たちには大体において「一緒にやりませんか?」と誘いをかけても協働歩調を取ることはまずない(あればとても嬉しい)。それが良くも悪くも現在の日本を取り巻く教育状況である。
▼社会人としての自分づくり
フリースクールに救いを求めてやってくる親子は、まず第一にその子が安心していられる居場所を求めている。その子はというと大抵の場合、自己卑下やマイナス感情でいっぱいである。だから、まずはそういう思いをしっかりと受け止めて、そこから少しずつ無理のない安定と向上、言い換えれば「自分壊しと自分づくり」を支援していくことになる。そして、やがては自分の足で立ち、思いのままに行動できるようになって行けるよう願っている。その目指す先にあるのは人としての喜びを享受できる社会人としての自分である。フリースクール・ぱいでぃあで心と身体の回復とその活性化を図り、進学進路を切り開くために出来るだけの学習支援を行い、同時に社会人としての常識やコモンセンスを体得するよう様々な試み(毎月の社会見学体験学習や宿泊旅行もその一つ)を行なっているのもそのためである。
▼フリースクールとは何か
もとより私たちのフリースクールは少年院や感化院(その後、救護院→児童自立支援施設)ではない。以前、戸塚ヨットスクールという人の家畜化を目的とする矯正施設のような団体があって(どこかの知事が支援する会の会長を勤めていたのは驚きだった…)、子ども達をまるで家畜か野生動物のように扱い、死者まで出すに至って社会問題化したことがあったが、子ども達をただ更生させなければならない問題児や犯罪者とみなすようなフリースクールはまともではない(しかし、今でもそういう施設を求める多くの親御さんがいるのが現実のようだ)。また、フリースクールというところは問題児の収容施設でも隔離施設でもない(でも、病院も学校もどこか犯罪者を収容する刑務所のような施設に似ているような気がする。建物のイメージから来るのだろうか、機能から来るのだろうか)。
▼包み隠さず話し合うこと
だから、フリースクールで引き受ける場合には、それなりの時間をとって十分に話し合い、情報や意見を交換し合い、さらに体験入学も行い、両者が納得の上で(一番の決め手は、本人がここでやりたいということ)初めて入学の手続きとなる。だから、フリースクールの側もご家庭の側もまずは求めることを包み隠さずに話し合うことがとても大切だ。私たちは単に子どもを引き受けるだけでなく、その子がここで疲れや傷を癒し、やがて自分の足でしっかりと立ち、自分の翼で力強く羽ばたいて行くことを願っている。そういう社会人になるための自立支援の学びと活動の場としてこのフリースクールがあるのだ。
▼子どもの下僕を演じる親
ところが、「弱い我が子を守る」「傷ついた我が子を保護する」という強い思いが、逆に親御さんの子どもへの対応を見誤らせ、思わぬ方向への展開を招くことがある。幸いにして、フリースクール・ぱいでぃあに救いを求めてくるご家族はマスコミをにぎわすようなネグレクトや虐待のケースはまずない。しかし、子ども可愛さからなのか子どもを不憫だと思うからなのか、「子どもの意思を大事にしたい」と思うあまり、子どもの言いなりになり子どもの下僕のように振舞ってしまうケースがないわけではない。そうなるとそこに、尤もであろうと理不尽であろうと、親は自分のことは何でも聞いてくれると見抜いて幼児性の万能感に浸りきる子どもと、子どもの言うことには何でもはいはいと行動してしまう今流行のメイドか執事(コンシエルジュ)のような親、という主客が転倒した奇妙な関係が出来上がるのである。
▼子どもを尊重するということ
ここで子どもはあたかもお姫様か小皇帝かのように振舞い遇される。そして、親や保護者は本来自分達が果たすべき責務やプライドをとうに失ってしまっている。その行動の基準となっているのはただ「子どもがそう言うから」「子どもがそう望むから」ということ。ちょっと聞くと、子どもの言動を尊重するという原点に立った物言いのようにも聞こえる。親として非の打ち所がない返答のようにも聞こえる。が、果たしてそうだろうか。こうすれば本当に子どもは次代を担う人間として心身ともに健やかに育つことができるだろうか。逆ではないか。昔から「かわいい子には旅をさせよ」と言ってきたのは単なる言葉の綾ではないだろう。
▼子どもをダメにする方法
ここには社会人としては未完成の未成年の子どもを養育するという親としての最も重要な観点が抜け落ちている。生物学的な営みの結果として親とはなったが、我が子に人として生きていくために必要な教育を施すという歴史的社会的な親としての義務を完全に放棄している。まだ人として未成熟な子どもに、意のままにさせていたらどうなるか。子どもは今の年齢でわずかに判断できる興味や関心の小窓を通して世間を眺め、易きに堕した気ままな選択をするだけだろう。これは「子どもをダメにする最良の方法」と言われていることと同じである。それは「子どもの言うがままに、要求のままに行って、要求する物を与え続けること」だという。その分だけ、子どもは自分の手足や頭脳を使って努力することを厭い、自他に挑戦するチャンスをみすみす捨てているのである。たとえば、「リンゴの皮も向けない子ども達」はこうしてつくられる。
▼変わりようのない自分に気付いた時
これはこれで、子どもの興味や関心、子どもの存在そのものを商品化しようとする大人の格好のターゲットになっている現実がある。これは逆の意味で立派な子ども虐待のようにも見える。このような育ちをさせられた子ども達は、後で自分の無力感や無能力感に苦しむことになる。でも、子どもが自分でそれに気付いた時にはもう遅い。「人はいつでも変わり得る」というのは半分真実であり半分は偽りである。このような場合には、もう容易には変わりようのない自分を発見するだけである。
…(続く)…
▼大雪山系での遭難ニュース
私達が旅行から戻って1週間後のこと、私達が旅行の最後にロープウエイで上った旭岳連邦の山々で(トムラウシ山や美瑛岳)、中高年の登山者達10名の遭難と死亡のニュースが飛び込んで来た。例年にない異常気象による天候の急変、中高年中心の登山者集団、北国の登山に似つかわしくない不十分な装備、そしてガイドの未熟な状況判断…そういうものが重なり合ってあの遭難事故は起きたようだった。亡くなった人たちはみな道外の道産子ではない人たちで、天候によっては真夏でも冬山並みになる北国の山の厳しさを知らない人たちであった。それに加え、あの人たちは無茶な縦走を激しい風雨の下で強行したのである。
私達の場合はあくまでも観光旅行の一環であり、目的がツアー登山とは根本的に異なる。旭岳山上の散歩にしても1時間で楽に回り切れる全くの観光客向けのものであった。それで、少し前に自分達も行って来た場所であり、遭難のニュースに驚くには十分であった。私達が行った時は幸い空も晴れており、山登りの経験のない者でもそれなりに散策を楽しめたものだ。それでも、山上はガスと噴煙で曇っていて、とても寒かった!
▼北海道の自然の予備学習を
これはあらかじめ今回の旅行の参加者には特別に時間をとって確認していたことであるが、世界自然遺産の知床半島を含む今回の北海道東部旅行そのものは朝晩に多少関東よりは肌寒くなることはあるが、あまり気温差は関係ないこと、特に富良野などの内陸部は熱しやすく冷めやすい内陸性の気候なので場合によっては30度を超えて逆に関東よりも暑くなることもあることなどを伝えていた。だから、普段は半袖のシャツでも構わないが、野山を歩くので必ず長ズボンであること、履き慣れた歩きやすい靴であることなどを徹底させた。その上で、3日目の旭岳の姿見の池等の山上散策においては長袖のシャツの着用や防寒具の装備を厳守させたのである。
勿論、私達は風雨の中での散策までは想定していなかったが(ロープウエイそのものが運行しないだろうし)、大体において高度が100m上げるにつれて温度は0.6度ずつ下がることを、単なる言葉だけではなく子ども達に当地の現在の麓の温度から割り出す計算をさせていた。そのように、私達は無謀なことは一切するつもりはなかったし、行く前から山上での自然の厳しさは認識させていたので、参加者でその用意をしていない者はいなかった。
▼自然の体感的理解
ただ、こういうことは実際に体験していないとやはり感覚的に分かり難いところがある(逆に、10人の遭難者の場合には中途半端な経験が仇となったところもある)。その点、私達の場合には若い頃から北アルプス等の夏山登山には何度も挑戦し、縦走もしているので凡その感覚は把握していた。それに、私の場合は高校の卒業までは北海道の東部(北見)で過ごし、その気候についてはその様々な面を体感している。雌阿寒岳や十勝岳の猛烈な噴火による天変地異(火山灰が止め処なく降り注ぎ、昼間なのに夜中のように暗くなった)も経験している。十勝岳の夏山登山も行なっている。勿論、冬の北海道の自然の厳しさも承知している。太陽が隠れれば瞬く間に何もかにもがガチガチに凍て付いてしまう。
だから、自然に対する変な驕りは自分にはない。道産子であればどこにいても大雪(たいせつ)の山並みは見えるし、人もまたこの大きな自然の営みの中で生かされていることを実感していた。10名の遭難者の中に、そういう自然に対する畏怖というようなものがあったなら、アホなガイドの指示に諾々と従うのではなく、あたら命を落とさずに済んだのではないかと思うと実に残念である。
▼自分の器=旅の土産
北海道旅行に関する記述は、他にも様々な指摘すべき点はあるが、一応今回で終わりとする。そして、これはあくまでも私から見た旅行の記録である。実際に子ども達の一人ひとりは何を見たのだろうか。
「旅のしおり」にも書いたことだが、「人は自分の器にあったものしか旅から持ち帰れない」のだ。だから、何を持ち帰ったかによって、その人たちの器も量られる。しかし、すぐに花実を付けるものもあれば、晩秋や厳冬の中で花実を付けるものもあるので、軽々しく人を判断することは出来ない。花実を付けない場合だってあるやも知れぬ。それもまた一つのあり方だろう。その後の子ども達……どんな花実を付けるか、付けないか…実は誰も分からない。それぞれが自分に相応しい成長をすることをただ願うばかりである。
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不登校とフリースクール
▼子どもたちの生きる世界の狭さ
今回の北海道旅行を終えて改めて感じることは、子どもたちの世界の狭さである。どうもこれは不登校生だからということではないようである。むしろ「学校」という純粋培養というか無菌室というか、社会から半ば隔離されその中で育ったことによる今の子ども達に共通の特徴かもしれない。これは子ども達が問題ということではなくて、大人たちの教育観の反映ではないかとも考える。それをひとことで言うならば、「子ども達は学校以外の世界に興味や関心を持てない世界を生かされている」ということである。
▼何でも見てやろう!聞いてやろう!
限られた日程と費用との中でのせっかくの北海道旅行ではあったが、子ども達は自分達の世界に設けられた小さな窓からわずかに興味や関心を引くものを、自分を安全地帯に置いたまま、ちらちらと眺めているだけのようにも見える。「書を捨てて街に出よう!」と言ったのは劇団・天井桟敷を率いたかの(劇作家というべきか詩人・歌人と言うべきか)寺山修司であったし、「何でも見てやろう、聞いてやろう!」と言ったのはかつてフルブライト留学生となってアメリカを闊歩して歩き、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を率いて戦後日本の市民活動の礎を築いたとも言える作家のあの小田実であった。フリースクール・ぱいでぃあが学校を離れた子ども達(不登校生達)に「もっと広いもっと自由な新たな学びの方法」として取り入れているのも、彼らのこのやり方から来ている。
▼不登校生たちの思いとは
もちろん、彼らのように特異な才能に恵まれた人間と不登校生とが同一に論じられるわけはない。しかし、学校を離れた子ども達は大なり小なり学校という空間に違和感を感じ、そこで自分は学ぶことは出来ない、生活を続けることは出来ないという思いを抱いた子ども達であるはずだ。その意味では、もっと囚われのない場所で学びたい、自分をやり直したいと考えた子ども達でもあるはずだ。だが、いま社会の中で生きている大人の視野と中学生くらいの子どものそれとは大きく異なる。子ども達は今まで自分が生きてきた世界しか知らないのである。その範疇の中でしか選択することはできないにだ。
▼体験を通して現実を見る
そういう子ども達に必要なのは、身体丸ごとの体験を通して感じること考えることであって、限られた知能の小窓を通しての疑似体験を通して考えることではない。ぱいでぃあが行なう旅行は、単なるお遊びでも、知識の延長でもなく、いわば改心(回心)とか転向とでも呼ぶべき精神や感覚の脱皮の体験をするためである。だから、その意味で、2泊3日というささやかな旅行ではあるが、単なる日常の延長ではなく非日常の体験の旅でありたいのだ。そういう非日常の体験を通すことで、再び日々自分達が生きることになるこの日常的現実が新たな様相を帯びて眺められるようになるやも知れぬからである。
▼社会人と共にする旅行
この3日間、44人の社会人の一員となっての旅であった。ぱいでぃあの旅は普通の社会人と一緒であるというのが、学校のお誂えの修学旅行とは大きく異なる。学校での旅行は終始学校の範疇の視野での旅になる。しかし、ぱいでぃあの旅は敢えて社会人との旅に参加し、子ども達に社会人としての行動を学んでもらうことを重視している。同時に社会人の方々にも陰に陽に協力してもらうことになる。向こうから問わない限りこちらから敢えて表明することはないが、必ず「どういうグループか」と聞いてくる何組かの人たちがいる。そして、こちらの活動を了解しそれとなく距離を置いて協力してくれる。しかし、子ども達には社交辞令というものと大人が仕事としてやっていること、親身になって言っていることとその場の空気を読んでの振る舞いというものとの区別がまだつかないこともある。だから、話の分かる親切なガイドさんなどと思って気安く寄って行くと、図らずも温室のカバーが外されたむき出しの社会の現実に触れることになることもある。彼(彼女)らはサービスで仕事として如才なく振る舞いはするが、フリースクールのスタッフではないのである。
▼子どもたちの脱皮のきっかけになれば
そんなこんなの3日間の子どもたちの旅行体験が、初めての新鮮な体験やその風土や人との出会いなどを織り交ぜながら、今後にどう引き継がれて展開していくのか興味深いものがある。束の間の分離ではあったが「子離れ・親離れ」という観点からも、子どもたちの脱皮のための一つのきっかけとなればいいと思っている。
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▼深夜便で羽田空港へ
7月9日、北海道旅行からの帰りの千歳空港発の便は深夜便。意外に早く羽田空港に着いたが、時刻は既に23時過ぎ。荷物を手にしてから(そこで生徒の一人の父親に対面し一人をタッチする)羽田空港からモノレールで浜松町に出た。そして、そこからJR京浜東北線に乗って一路南浦和へと向かった。
▼電車の中で翌日に
その帰りの電車はおそらく終電に近いもの。途中の電車の中で時計の針は12時を回り、翌日へと日にちが変わった。車内で我々は半分ふざけながら「おはよう」を言い合った。こういうことも中学生の子ども達には初めての経験だろう。普段ならとうに寝ている時間だ(たぶん)。生徒達は互いに親と連絡を取り合い、駅で待ち合わせする人、少し遅くなるが家庭まで送り届ける人などに分かれた。この子達はまだ中学生で未成年。安全とは言っても一人で帰すわけにはいかない。家で待っているなら迎えに来れば…とも思うが、責任は最後まで果たさなければならない。
▼朝帰りの客で電車は満員
ところで、この電車は何でこんなに人々々で立錐の余地もなく込んでいるのか。さらに、赤羽駅からは余計に込んできた。この人たちは今まで何をしていたのか?考えるまでもなく、この電車の乗客はみな朝帰りの客である。この中には退社後仲間達と酒を飲んで遅くなったという人もいるかもしれない(確かに酔っている人が何人もいる)が、中には今まで会社で残業していたという人もいるようだ(大部分の人が青ざめたシラフの顔である。携帯で何かを見ている人もいる)。
▼日本の社会を高めかつ崩壊へ導いたもの
そのどちらにせよ、この人たちには家庭生活というものがないのだろうか。あっても顧みるに値しないということだろうか。会社に入ったら家庭を顧みたくても顧みられないということだろうか。どう見たって顧みられた行動ではないのは確かだ。そのほとんどの人が会社勤めのサラリーマンのように見える。企業戦士と言えば格好はいいが、会社のためには個人の生活を犠牲にした人たちと言ってもいいだろうか。時折、アメリカ映画に見るような、何が何でも家庭を守る、場合によっては国家とも対峙する、という発想はここにはない。ああ、こういう人たちが、こういう人たちのいる会社や組織が、日本の物質文明の隆盛を招来し、また日本の家庭を崩壊に導いたのだ。改めてそんなことを考えた。「こういう生活は送りたくないな」とは、旅を共にして、帰りの電車の中でふと漏らしたある子の言葉である。その子の素直な感想なのかも知れない。
▼大人の社会に希望はあるか
大人の都合で振り回され自分の生き方を見失いかけた子ども達…。旅という非日常の行為の中で束の間忘れていた不如意な日常の営み。そこから再び意欲と希望を持って生きていくわけだが、その日常生活でのモデルとなる大人たちの現実の一側面を今、子ども達は見ているのだ。「自分達はやがてこんな大人になるために努力しているのだろうか…」そんなことを考えた子どももいたかもしれない。今本当に問われているのは子どもたちの教育のことではないのではないか?大人たち一人ひとりの生き様こそがが問われているのではないか。そんなことを考えた帰路であった。
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▼スクール活動の一環としての旅行
今回、私たちは7月7日~7月9日の3日間、2泊3日の北海道東部初夏の旅を行なった。参加者は私たち教師2名と子ども達。フリースクール・ぱいでぃあとしては2度目の世界自然遺産知床散策&クルーズ、摩周湖・阿寒湖・根釧原野・花畑牧場、富良野・美瑛・旭岳巡り等の旅行である。旅行は子どもたちの希望をそれなりに叶えたものであり、ぱいでぃあの毎月の社会見学体験学習の成果を実践するものでもあった。だから、それ自体はぱいでぃあの学習活動の一環との位置付けであった。
▼旅では「食」が問題になる
しかし、旅には旅の準備が必要であり、ただ身体を移動させればいいというわけにはいかない。普段の生活が、たとえそれが学校を離れた不登校の子ども達であっても日常生活の延長にあるとすれば、旅というものはその大小を問わずやはり非日常の営みである。普段の自分をそのまま持ち込むというわけにはいかない。と同時に、普段ではまるで問題にもならなかったことが改めて問題にもなる。その一つが「食」の問題であった。 (子どもたちのほとんどは今回飛行機に乗るのが初めてなら、親元から一時的に離れて旅をするということ自体が初めてという子ばかりだった。必然的に子ども達は学校・家庭・友だち・近所という空間の中で生活し思考していたことになる)
▼旅行と食の問題
食わず嫌いや食の偏り、食のアレルギーなど、食に偏りがあると、旅の先々でいかに大変な思いをしなければならないか、今回の旅行で骨身に沁みて感じた人たちがいたかもしれない。これは普段は自分の好きなものを食していればまず問題になることはないが、みんなで旅行するとなると、そのことが大きな課題として考えなければならなくなる。旅の先々でホテル等が自慢の料理として出してくるものが食べられないのだから。
▼食のアレルギーと食の偏り
アレルギーの場合にはどうにも仕方がないところがあるが、恣意的な食の偏りや食わず嫌いの場合には、今までの生育の過程で何とか手立てはなかったのかという気にもなる。しかも、本人がまだ親の庇護下にいる時には、それが本人の個人の問題と処していいものかどうか。やはり親の関わり方の問題も考えなくてはいけないだろう。ただし、ここで言いたいのは責任の所在がどこのあるかということではなく、子どもの食の偏りは単にその場で摂取する食事の問題にとどまらず、その子の今後の食生活全般、ひいては現実生活での生き方そのものにも関わってくる問題であるということである。個人の嗜好のレベルの問題として処すればそれでOKというわけにはいかないだろう。
▼食と生き方の問題
他のほとんどの人たちが「おいしい!おいしい!」「幸せ~!」と感じ、食せる喜びつまりは健康に生きてあることそのものの喜びを見出している時に、食の偏りのある人はその喜びを共に享受出来ないばかりか逆に自分には不要な排除すべきもの不適なものという対応になってしまいかねない。これはその人を責めると言うことではなく、そのようにしか関わることが出来ないということの侘しさ辛さを思うのである。くどいようだが、食の問題が単に食の問題にとどまらず、本人の今後の生き方そのものを狭めることにもなってしまうことを老婆心ながら危惧するのである。
▼食の理解と新たな課題
この頃、盛んに「食育」の大切さが叫ばれている。そういう中から逆に食の偏りやアレルギーの問題もクローズアップされるようになってきた。その結果、魚介類がダメ、卵がダメ、牛乳がダメ、蕎麦がダメ…などということが段々理解されるようになってきた。そういう理解の乏しかった昔は、生徒の我がままのように看做されて居残りさせられてまで食べることを強要されたりもしたものだ。今、そういう無理解な教職員の対応はあるまい。そのことで救われている人も多いのではないか。しかし、それでもやはり、この問題は今後も続く。問題は何も解決していない。むしろ複雑化したといってもいいだろう。今回の旅行を通じても、このことは強く感じられたことであった。まだ、事前に申し出た子の場合には不十分とはいえ、ホテル側と交渉することができた。しかし、それを申し出なかった子どもの場合には、皆と同じものが出てきたわけで、今更どうにも対応できないことにもなった。
▼食はその国の文化問題である
さらに、この食の問題は個人の嗜好にとどまらず、その国の文化や民族の営為とも大きく関わってくる。今回のように国内の旅行ならまだいいが、海外の国に行きそういう問題に出くわすと、単に個人の嗜好では済まなくなることも出てくる。その食を嫌い排除することが、その国や民族の文化や社会的伝統を拒絶する行為とみなされてしまうこともないわけではない。ある社会では、それを「食べた」ということがその社会や文化のあり方を了解し同意したということを意味することもあるのである。食の問題はそこまで発展してしまう。
▼食育と不登校の問題
単なる小旅行で生じた問題をそこまで引っ張るのは問題があるかもしれない。しかし、この問題は未解決の問題として今後も考えて行かねばならない。それにしても、教育の問題を考える上で「不登校と食育」というキーワードはとても大きな視点であることを改めて考えることとなった。
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フリースクールの学び②…勉強を重視するフリースクール
▼初期に誕生したフリースクールを第一世代のフリースクールと呼び、その後に誕生した“ぱいでぃあ”のようなフリースクールを第二世代のフリースクールと、勝手に命名させてもらっている。しかし、そこにはかなり大きな違いがある。それは第二世代のフリースクールは第一世代のフリースクールの活動を見て、その問題点の考察と反省の上から出発しているからである。では、どこがどう違うというのか。
▼これもまたフリースクールごとに違いがあるので一概に「こうだ」とは言えないが、第一世代のフリースクール活動が「反学校」「反文部省的教育」の色彩が強く、フリースクールやそれを支える親の団体が一種ギルド的な団結力で「子どもを守る」(その子どもたちの中には知的・身体的障害者が多かった)という意思で外部の圧力に抗していたり、独特の教条的論理が支配的であったりする(シュタイナー流とか宮沢賢治流とか)のに対して、第二世代のフリースクールの場合には、似たような教育理念はあるものの、その理念にしろ活動の実態にしろ、もっと自由でのびやかな視点に立っているように思う。
▼第一世代のフリースクール活動が日本の教育に新たな道を切り開いた功績は大きいが、どこか頑なでイデオロギー的な色彩が強かった。確かに学校に様々な問題があり、子どもがその犠牲者であることも珍しくなかった。ところが、フリースクールが誕生した頃の不登校となった子どもの扱いは、“集団不適応”“問題児”“怠学”など「その子自身の問題」として処理されることが多く、親からの抗議もまともに受け入れられることは少なかったのである。 だから、そういう評価を下される子ども達を守る手段としてフリースクールが誕生したことは事の必然でもあったと言える。
▼しかしまた、それが単に学校や教員の資質に起因する問題だけではなく、学校教育を超えた日本の教育制度の問題(帰国子女がしばしば遭遇する)であったり、その子自身の育ちやしつけなど家庭に起因するものであったり、精神的身体的な障害、親御さんや保護者の学校への対応の仕方に起因するものであったり…子どもが不登校となり、学校へ行けなくなる要因は実に様々である。そういう問題を第一世代のフリースクールがカバーし切れていたとは言い難かった。逆に、そのフリースクールやそれを支援する親御さんの論理に縛られて、そこに関わる子どもや親が自由に発言したり行動したりできなくなっている場合さえないわけではなかった。。(こういう問題はある小集団が外部に敵対的になったり独善的になったりする場合にはよく起きることで、自省的な視点も欠かせない。)
▼そのような様々な不登校生に関する問題の中で、とりわけ問題であったのは学業の問題である。周知のように、日本の学校教育システムでは、学校教育法第1条にあるように、“勉強”の資格を認可するところは一条校をおいて他にないのである。学校とは“勉強するところ”であり“社会性を身につけるところ”というのがその建前である。だから、そこが「相談室」や「適応指導教室」であるならば、原則として“勉強を教えてはいけない”し“勉強を教えない”ところなのである。では、フリースクールではどうなのか。
▼第一世代のフリースクールは、“子どもの居場所”“子どもの避難場所”としての機能を最優先させており、勉強とりわけ教科学習の指導については二の次というのがほとんどであった。むしろ、「学びからの逃走」と言われるなど、学校で行っているような教科学習は逆に子ども達に差別感覚を持ち込むものとして導入することに消極的でもあった。だから、第一世代のフリースクールはフリースクールと謳ってはいても、その内実はむしろ「フリースペース」に近いもので、その境界はかなりあいまいなものであったが、それでよしともされていた。それが“登校拒否”(“意識的に学校に行かない”という意味で、第一世代のフリースクールの担い手の人たちはこの呼称を好むことが多い)と呼ばれようと“不登校”(“学校に行きたくてもいけない”という意味のニュアンスがあるが、文部科学省をはじめ広く使われている)と呼ばれようと、学校を離れたそういう子ども達にまず必要とされたのは“居場所”であり“活動の場所”であった。
▼しかし、フリースクールに対して“学校を離れた子ども達は学業をしなくてもいいのか”という問いかけはずっとあった。たとえそのフリースクールが“「学びの学園」というような呼び名で学校教育にとらわれない学びをしている”ということを強調していても、“実質は子どもの気まぐれにおもねているだけではないのか”という批判に耐えられないものが多かった。“子どもの自由意志を尊重する”とは言っても、子ども達は今まで生きてきた狭い経験の世界を通して考えているだけのことが多い。だから、ゲームが興味の大半を占める子は46時中ゲームばかりに没頭するし、自由気ままな雰囲気の中で成長期を何となく無為に過ごしてしまうということもないわけではない。
▼月刊教育雑誌『ニコラ』(1995年7月号創刊)の編集をしていた頃から、当時あるフリースクールに通っていた女の子が、“自分はもうすぐ20歳になる。お陰で体はとても元気になったが、困ったことがある。自分は将来保母さんになりたいと思うのだけれど、今まで全く勉強をしてこなかった。だから、どうしたらいいか悩んでいる”というような相談が幾つも舞い込んいた。だから、自分が(第二世代の)フリースクールを始めてから、ここでは教科指導もしっかりやってくれるということを知って、他のフリースクールから転校してくる子ども達が何名もあった。また、私どもで定期的に「青少年の引きこもり広場(ぱいでぃあ広場)」を開いていたこともあって、中には、県内のトップクラスの進学校に進学しながら、精神的な悩み等で通学できなくなり、傷ついた心の翼を癒しにやってきた生徒達もいた。ところが、こういう関わりは第一世代のフリースクールでは想定されていない事柄であった。ここに第二世代のフリースクールの登場の必然性があったのである。
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フリースクールでの学び① …日本の民間教育の歴史
▼読者の方は、フリースクールという学び場をどのようなものとイメージしているだろうか。また、そこでの“学び”というものをどのようなものとイメージしているだろうか。大部分の人は多分、かなりステレオタイプ化されたイメージを持っているのではないかと睨んでいる。どうせ学校教育から落ちこぼれた子どもたちなのだから…と。
▼大まかに言えば、その捉え方は半分合っているとも言えるし、半分は外れているとも言える。なぜなら、たとえば識者が“フリースクール”という言葉で一括りにしようと、フリースクールという教育施設はその数だけの設立の理念があり、どれ一つとしてまず同じものはないからである。それに、フリースクールの中にも歴史性というものがあり、第一世代のフリースクール、第二世代のフリースクールなど、そもそも設立の趣旨が違うことも多いからである。
▼第一世代のフリースクール、すなわち初期の登場したフリースクールは、“学校教育から子ども達を守る”“子ども達の側に立つ”というような理念で共通性があった。だから、初期の進学塾や学習塾がそうであったように、第一世代のフリースクールもまた学校と鋭い対立関係を持つ場合が多かった。事実、フリースクールの設立に参画した親達は学校側に対してそのような攻撃的な姿勢をとることが多かった。だから必然、学校の教員やPTAなど学校側の論理に則って行動する傾向の強かった親達には、フリースクールという存在自体が“反学校”的な施設と写っていたようである。
▼フリースクールという存在の登場(詳しく見れば明らかになるが、フリースクールは地域の学習塾の活動の中から生まれている)は、その初期から不幸な対立構図を持ち込んだとはいえ、日本の学校教育の中にエポックメイキング的な意義をもたらしたことは明らかである。
▼日本の教育の歴史を紐解くまでもなく、日本の社会には子ども達の教育に国家が乗り出してくる前に、奈良平安時代の昔から連綿と続く民間教育の歴史があった。英国等の貴族の子弟に対する教育はよく引き合いに出されるが、日本の場合にも──誰か系統的に系統的に研究した人はいないのだろうか──僧侶や貴族や豪族達の間では熱心な教育が行われていたということは、当時の資料からも明らかに読み取れる。たとえば、太安万侶にせよ清少納言や紫式部にせよそういう中から輩出した人達であったろう。フリースクールも民間の教育運動の一形態と考えれば、そのような民間独自の教育活動に行き着く。
▼ところが、明治の新政府が誕生し、欧米の列強に対抗すべく、明治5年8月の学制発布により徐々に教育の国家支配が浸透している中で、民間主導の寺子屋での個別教育に代わり、教育は国家が取り仕切るものという意識が一般的となり、今日では当たり前の授業風景となっている国家主導の学年別の一斉教育が行われるようになっていった。だから、産業の振興と共に教育内容も徐々に高度化し、巷間の教育熱が高まるのに比例して、学校教育から脱落する子ども達や“登校拒否”の子ども達が多数生まれるようになり、そこから子ども達を救済する教育機関としてフリースクールが誕生するに至るのは事の成り行きとして必然的な流れでもあった。そして、そのフリースクールが“学校教育から子ども達を守る”“子ども達の側に立つ”ということをその目標に掲げたのもある意味当然のことであった。その一方で、日本のフリースクール運動が不登校生のための受け入れ機関に特化されてしまい、本来のフリースクール運動が変質してしまったこともまた厳正な事実として受け止めなければならない。
▼そこで、日本のフリースクールの活動を考えるときには、本来のフリースクール運動とはどういうものなのか、国家主導の日本の近代教育が確立する前にあったという民間の教育活動とはどのようなものであったか、本来教育というのは何を目標としているのか…ということを再度確認しておきたいと思う。
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「知ることは共に生まれること」(ポール・クローデル)
connaitre = con + naitre
伝統行事の節分・豆まきを楽しむ
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2月3日の昨日、ぱいでぃあ(フリースクール)で節分の豆まきを行った。
以前は毎年恒例の行事として行っていたが、ここ数年は行っていなかった。しかし、今年は遣り残しのビンゴゲームもあり、併せて楽しむこととした。
その前に、今の子ども達にもこの行事の意味が分かるように、「節分とは何か」「鬼とは何か」を説明し、同時に、古来この行事に日本人がどんな思いを込めてきたかも話して聞かせた。そしてまた、地方によっては「福は内、鬼は外」だけでなく、「福は内、福は内」とだけ言うところとか、「福は内、鬼も内」と言うところもあるなどとも話した。その後、全員鬼になってもらう子ども達に、豆まきでの振舞い方も説明し、いよいよ本番である。
古い年に別れを告げ、新しい年を迎えるにあたっての祈願を込めた行事でもあるこの春の節分は、まず子ども達が「鬼」となって豆をぶつけられて散り散りに退散し、今度は「福の神さまでーす」と言って堂々と入って来る。これで福に満ちた新年が始まるというわけである。いつもなら各自お面を作って(鬼の面だけでなく、お多福の面も作って)騒ぎに興じるのだが、今回はお面の用意はなく、出来合いの鬼の面が一個だけあった。
たったこれだけの、他愛のないといえば他愛のない行事だが、こういう行事でもそういうことさえ知らない、のっぺらぼうな空間に生きがちな今の子ども達にはそれなりに新鮮であったようだ。春夏秋冬、四季折々の様相がはっきりしている日本では、自然の運行を再確認する意味でも、たとえそれが取るに足らない些細な行事ではあっても、それなりにやることの意味はあると言えそうである。
ちなみに、使った「豆」は落花生、それと包まれたチョコ。各自が拾って食するためである。自分の年の数だけ食べる…ということもこういう場で伝えていく。
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