子どもに合わせるということ ─〈家訓〉を失った子育て─
▼公立の学校も似たものかもしれないが、長らくフリースクールを運営していると、実に様々な人々に出会う。その中には親御さんが錚々たる社会的ステイタスを築いている人もいれば、縁の下の力持ち的な役割をこなし黒子に徹しているという人もいる。経済状況も様々だ。不登校は親の経済状態を考えてするわけではないのだから。しかし、もとよりそのことで不登校生本人をどうこうと勘案するということはまずない。
どんな子どもであれ、独立した人格を持ち、親御さんとは同一視出来ない存在である、ということは、こういう業務に携わる者の基本的考えである。
▼しかし、
不登校になる子ども達はまだ未成年であり、思春期前の肉体的にも未完成の部分をたくさん残している。まさにティーンエージャー、まだ10代の子ども達である。だから、必然的に見たり体験したりしてきた世界も限られている。(特に市街地の住まいであれば便利と引き換えに様々な生活上の制約もある。)だから、その子が考えたり望んだりすることもそういう限定の下にある。子ども達は見聞し体験したことを血肉に育つしかない。ところが、
現在の日本の社会では、何でも子ども任せにすることが進歩的な親の振る舞いと思われているフシがある。〈子どもを尊重する〉ということが、何か勘違いの上に築かれてしまっているのかもしれない。
▼〈子どもがそうしたいと言うから〉〈子どもが嫌だと言うから〉などということが尤もらしく語られる。〈だから?〉〈だから、××です。〉なるほど、物分りのいい親は子どもの評価も高いかも知れない。しかし、そこには
親の意向が全く見えない。親たる者が人生の中で篩(ふるい)にかけ獲得してきたであろう筈のものがまるで見えない。少なくとも我が子が成人するまでは全責任を担って子育てするという親としての気概が全く等閑に付されているのだ。
まだ10代の世間知らずの、物の軽重も充分にわきまえず、ただ好悪の感情に任せて口走る子どもの言葉に判断を任せてしまっている。さもそれが最良の判断であるかのように。
▼いや、そうとは言い切れない。それが一方の近現代の特徴だとするならば、もう一方には
子どもの言い分以前に家としての決まり、いわゆる〈家訓〉というものが厳として存する家庭もある。そういう家庭では子育てもまたその規範に則って行う。いわゆる〈
帝王学〉というものがあったりもする。そこでは少なくとも子ども任せの判断に従いはしない。親が責任を持って家訓に相応しい子育てをすることになる。しかし、それは決して子どもの言い分に耳を貸さない親ということにはなるまい。子どももまた親の意向を充分に汲み取って行動するのだ。
▼だとするならば、〈子どもがそう言うから〉とか〈子どもが望んでいないから〉などという親の言い分は、
子どもに対抗すべき何物も持たない親、自分の生き方に何の指針もない親、と言われてもやむを得ないとも言える。かつて、不登校は子どもの学校への不適応が原因ということで、学校の側の問題は不問に付され、子どもの問題とされた。今も名称は変えたが
適応指導教室という考えは色濃く残っている。フリースクールはそういう教育行政のあり方を鋭く批判してきた。しかし、今、子育ては環境の劇的な変化も伴って、一筋縄では行かない事態になっているのを感じざるを得ない。
〈日本の教育のちゃぶ台返し〉は至る所で行われねばならないのかも知れない。
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「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)