教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「小1プロブレム」=幼・保ではなく小学校の問題ではないか

2009年03月31日 | 教育全般

各種の新聞によると、品川区では小1プロブレムに対応するために、幼稚園・保育園と小学校をつなぐ一貫教育を推し進めるようである。

いわゆる「小1プロブレム」という教育問題は随分前から言われていたことである。それが今までも文部科学省好みの教育改革らしきことを積極的に取り入れてきた品川区の幼保・小との一貫教育の試みで、改めて脚光を浴びることになったようだ。

だが、私が以前に教育雑誌の取材をしていて分かったことは、どうもこれは幼稚園や保育園の側の問題ではなく、むしろ学校教育の側の問題ではないかということであった。幼保時代に自由で行動的な生活を送ってきた子ども達が、先に集団の枠がある小学校の生活に違和感を覚えることから来るものらしかった。だから、幼保時代に枠の中で生活することに違和感を覚えない生活を送っていた子どもにではなく、「自由保育」という子どもの自主性や能動性をより積極的に伸ばす取り組みをしていたような先進的な幼稚園や保育園の子ども達に多く見られる現象のようであった。(だから、むしろダメ生徒と看做しているような学校教員やマスコミの評価とは随分異なる)

つまりは先に個性豊かな一人ひとりの子ども達がいるか、それとも先に集団としての枠があって子ども達をその鋳型に当てはめようとしているかの違いのようにも見える。だから、小学校の教員にとっては「自由保育」を唱える幼稚園や保育園の存在は困った存在でもあったようだ。実際、小学校に入って登校拒否を起こす子どもは自由保育を受けてきた子どもが多いとの指摘を当の自由保育を行っていた園長さんから聞いたことがあった。

しかし、これは子どもの教育という観点からしたら、とてもおかしいことである。これでは幼稚園や保育園では子どもが主体の遊びや学びはあるが、小学校には教員主体の学校はあるが子ども主体の学校はないということを自ら暴露したようなものではないか。1990年代になって学校教育の現場で不登校が増えてきたということと、子ども主体ではない学校教育というものがあったということは連動しているのではないか。

少し考えてみれば、親や教師が「子どもはいっぱい遊ばなくちゃ」という口調から、「いつまで遊んでいるの。いい加減に勉強しなさい!」というような口調になるのは、小学校入学を境にしてのことが多い。もはや遊びと学びは同根のものではなく、対立するものとなったのである。

欧米の学校教育と比較した場合、日本の学校教育で一番問題にされるのはその画一性であり、子ども達の主体性や自主性の乏しさである。そして、この息苦しさの中からいじめ不登校の数々が生み出されているようにも見える。

だから、「小1プロブレム」は幼稚園や保育園、あるいは家庭の問題かと言えば、そうではないとばかりは言えないことも確かにあるが、基本的には小学校側の問題なのだと私は思う。旧態依然の営みを続けてきた日本の学校教育そのものが時代の要請や子ども達の感性に合わなくなってきているのだ。だから、問われているのはむしろそういう子ども達を活かしきれない学校教育の側ではないかと、私は思う。

これは今年で10年になるフリースクールの運営を通して言えることだが、小学校1年生を含め何名かの小学生がいるが、学校生活の中で「問題行動」とされたような行動はフリースクールの中ではほとんど起こさない。彼らは子どもとはいえ「自分の存在が認められ受け入れられている」「自分はここにいていいんだ」と感じるならば、訳の分からない無茶な行動は決してしない。それは相談にやって来たときからそうだある。

ところが、「自分のことが分かってもらえない」「受け入れてもらえない」と感じると、自己主張と抗議の意味からも「どうして!」「ぼくのことをよく見てよ!」「ぼくのことを分かって欲しい!」と様々な行動を取るのである。ところが、教師や親はそれを「問題行動」として一方的に断罪してしまう。

子どもが問題行動を取るのは基本的に大人への異議申し立てであり、抗議なのである。だから、もし、それが学校現場で起きているとするならば、それは教員達がそういう子ども達の声を聞く耳を持たないからであろう。それは結局のところその学校での「教育の敗北」を意味している。そして、それは多分にして体勢に迎合し物言わぬ(異議申し立てをしない)生徒をよしとする洗脳教育であり、精神的ロボトミーを作り出す教育に近いのではないか。そう思えて仕方がない。私の馬鹿な思い込みであればいいのだが…。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


校長よ、「軽いのり」で済む話か!?

2009年03月29日 | 教育全般
生徒が「先生を流産させる会」 いすに細工、給食に異物(朝日新聞) - goo ニュース

一言で言えば「とんでもない餓鬼どもだ!」どのような理由づけがなされようとこれは許されるべき範囲をはるかに超えている

ところが、校長の談話からもうかがえる通り、この学校にはこういうことを「軽いのり」だと済ませてしまう風土があったのだろう。だから、もしかすると校長は「何でこんなことで新聞は大騒ぎするんだろう。ほっといてくれないかな。大したことじゃないんだから」という感覚なのかもしれない。この校長には事の理非がよく分かっていない。だから、個々の生徒においては推して知るべしのレベルだろう。

本来なら、「学校の中で子ども達をこんな行動に走らせてしまったのは、全く校長である私の責任です。校長という私の責任においてこの子ども達にまっとうな感覚を持った人間になる指導をしていきたいと思います」と、校長自らが深く反省し、学校教育の歪みを正す取り組みをすべきところではないか。

ところがだ。この校長の談話から垣間見えるのは、そういう歪みを率先して正そうとする姿勢ではなく、なるべく事を荒立てずに穏便に済ませたいという己の保身の心である。彼は自分の立場しか考えていないように見える。生徒のことは眼中にない。あるいは、そういう感覚の欠如した人間には、何が問題なのかさえよく見えていないのかもしれない。

だから、「命の重さについて、より指導を徹底していきたい」なんて、トラブルのあった学校の校長が口にするお定まりの、白々しい言葉でお茶を濁そうとするのだ。

生徒の攻撃目標になった教師がどういう類の教師なのか明らかではないが、どのような理由があろうと許される行為ではない。「軽いのり」で北朝鮮からテポドンを発射されてはたまったものではない。それと同じだ。笑い話で済むことではない。

それにしてもあまりにも精神の荒廃した学校風景だ。ここには子ども達を人間として育てる教育の営みが欠けている。だから、この教師はお腹の赤ちゃんのためにも一刻も早くこの職場を離れ、この子ども達や校長から避難した方がいいだろう。まずこの校長は辞めてもらうしかないだろうが、正すべきはそれからのことだろう。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


政治も教育も所詮は人間の為せる業

2009年03月09日 | 「大人のフリースクール」公開講座

政治も教育も人間の為す業、相対の問題に過ぎない

昔も今も、理想的な政治を夢想する御仁がいるようだが、政治とは所詮人間界での駆け引き。人は神ではないように、政治の世界にもあまり完璧を求めない方がいいようだ。今回の小沢一郎氏と西松建設との関係もそうだろう。全ては“どちらがいいか”の相対の世界の出来事である。理想を求めても仕様がないし落胆し過ぎるのも考え物だ。

今回の小沢氏の一件には、“陥穽の罠にはまったな”という感想を持つ。考えてみれば麻生内閣が誕生しその官房副長官に漆間巌元警察庁長官が任命された時から予想されたことでもあった。麻生内閣とは小沢氏の刺客を目的として作られたものではないか。自民再建ではなく死なばもろ共の内閣である。

それに日本が今後も自国の属国であることを望むアメリカは、クリントン氏の訪日に際して対等の関係作りを目指し、会う都合がつかないと最初言っていた“小沢を潰せ”の指令が出たのだという話もある。(クリントン氏は麻生氏よりも小沢氏と一番話がしたかったような節がある)

アメリカに潰された日本の政治家の例として田中角栄氏があげられる。アメリカの一方的支配を脱し石油エネルギーの利権をめぐってアラブとの独自の関係作りに傾いた田中角栄氏が邪魔になり葬り去られたとされる、いわゆるコーチャンメモによるロッキード事件である。

正直、私は政治の世界にはほとんど音痴である。政治的駆け引きなどの才能はまるでない。だから、逆の意味でそういう世界がよく見える(と自分では思っている)。麻生氏は“してやったり”とにんまり顔かも知れない。でも、敵さんを冥途への道連れにするのはいいが、それで彼自身の株が上がるわけではないだろう。今、政治に必要なのは明日への確かな展望なのだ

蛇足だが、昨日、県教委が主催した“親のための不登校セミナー”に出席し、壇上で話す一人となった。その時、私は学校教育の失敗について少し触れた。補足して言えばこういうことである。「教育の目的は次代の社会人を育成することではないか。よく学校では校長が“学校は勉強するところである。学校とは社会性を身につけるところである”と口にする。そうに違いないと私も思う。でも、日本の学校教育はこの二つ共に失敗しているのではないか。麻生氏などを見て特にそう思う」と。

これも蛇足だ。麻生氏が正月の書初めで、「廿十一」と書いたことが話題になったことはまだ記憶に新しいが、そもそもその書初めの文字「安心」「活力」という表記に問題があったということをあるメルマガで偶然知った。そこで、自分で確かめてみた。本当だった。

麻生氏が掲げる色紙の「安心」という字の「安」の“うかんむり”が“なべぶた”になっているのだ。これではとても彼の政治のやり方に安心できないことになる。ちなみに、漢字の国中国では、あの程度のレベルの漢字が書けないということは、余程知能に問題がある人間ということになるようである。

やれやれ、国家の機密事項をこうも易々と自身が隣国に漏らしてしまうとは!韓国の野球ファンではないけれど“国辱”的な思いさえする。“わが国の指導者は知恵も知識もある”とどこかの国民のように自慢してみたいものである。所詮小国民である私はそんなことを思ったりする。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キャッチコピー…時代を映す言葉

2009年03月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座
キャッチコピー…時代を映す言葉

▼いつもとは全く関係のない話題だけれども、世の中にはうまい言い方をする人がいるものだと感心することがある。逆に「えー、これでもプロの仕事?」と首を傾げたくなるものもある。卑近な例では、私たちのデータを素にした本が出されたが、どうもタイトルが「????」という代物。何のインパクトも感じられない。でも、「それでいく」と言うし、「その道のプロ達がやる仕事だから」と任せてしまったが、案の定、さっぱり売れない。プロの仕事でも、中にはそういうものもある。

▼さて、最近そんな話題にちょっと関心を向けたら、うーん、世の中には結構面白いコピーを考える人がいるものだねえ。何も「おいしい生活」の作者だけに限らないようだ。

▼その一つが、「おくりびと」に関するもの。あの映画の評価の割にはもっくん自身はハリウッドではあまり注目されていないとかの話もあるが、スポーツ新聞の紙面で「おくれびと」という言葉に出会った。野球のイチロー選手が前評判や彼自身の言動とは全く裏腹に練習試合ではほとんど打てず、最下位の成績で日本代表のお荷物になっていることを評したものらしい。こう評された彼はきっと針のむしろだろう。こうなると言葉は怖い。さらに3月3日朝日新聞を開くと、夕刊の「素粒子」には「もらいびと」(定額給付金)「うたれびと」(東京中央郵便局)「ぬすみびと」(仏像を盗んだ社長)などが載っている。この中ではやはり「やっぱり定額給付金はもらう」と言った麻生首相を皮肉った「もらいびと」が秀逸だろう。だが、笑っていていいものか…。

▼そんな眼で新聞を見ていると、他にも注目すべきものがあった。「オバマ政権でもこの国も凋落は止まらない─」というサブタイトルがついた大前研一氏の『さらば  アメリカ』という出版物である。詳しい内容は読まねば分からないが、この本はこのキャッチコピーが命だろうと察しがつく。実にタイムリーなタイトルの本である。これと同様のものには『奇跡の脳』“脳科学者の私の脳が壊れた──再生をもたらしたものは何だったのか?”というのがある。これは何よりも著者である脳科学者が脳卒中から奇跡の生還を果たしたということが効いている。

▼さらにもう一つ面白い言葉を見つけた。民主党の岡田克也元代表が自民党の世襲体質を「世襲病」と言って、それは「死に至る病」であると批判している。政治家が2世・3世など子や孫、でなければ娘婿などに議席を引き継ぐ世襲の衆議院議員が自民党の3分の1に達するのだとか。こういう議員達が多くなれば、その政党には庶民の暮らしなど見えるはずがない。たとえ見えたとしても、実感として分かるはずもない。だとすれば、そういう政党は衰退するしかないだろう。が、それは自民党に限らない。民主党の議員の中にも小沢氏や鳩山氏など同じような問題があるのだ。さて、この日本の社会を死に至る病にしかねないこの議員の世襲制を解決するどんな処方箋があるのだろうか。今後の推移を見守りたい。ああ、泥舟と化した日本丸はどうなるのか。

▼「言葉は時代を映す」というが、本当のようだ。逆に言うと、そういう時代を映したことばが特異な色彩を帯びて輝く、ということだろう。そういう意味で、ニュースの言葉が面白い。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村