教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

学校の先生に社会人として行動できる権利と自由を

2011年02月23日 | 学校教育
幼い教え子を歪んだ性癖の犠牲にするなど、とんでもない教員の不祥事が一向に収まらない。新聞報道によると、各地の教育委員会も対策に頭を痛めているようだ。たとえば、北海道教委は08年、実際に懲戒免職された教諭の手記を載せた 「不祥事防止リーフレット」を全教職員に配布したという。防止に必死だ。だが、このリーフレットでは肝心のことが欠落している。それが何か教育関係者には見えていないようだ。

いったい何故、教員の不祥事がかくも多いのか。精神障害を患う者の多さといい、不可解なことがいっぱいある。一説には、かつての教員と違って、今は比較的恵まれた待遇を受けるようになった結果、本来は教員になるのが相応しくない者まで教職を志望するようになったからではないか、という意見もある。使命感に燃えていたとでも言えばいいのか、昔の教師志望者はそんなに裕福ではなくとも、好きな仕事だから、意義ある仕事だからやるという人のパーセンテージが高かったのは事実だ。その分、周りの尊敬心も高かった。だから教員は貧しい方がいいんだ…などと野暮なことは言わないが、妙な説得力がある。

たとえ教員という一種の聖職(?)にあろうとも、普通の社会人であることに変わりはない。邪なことには全く無縁の聖人君子とか木石の如く考えるよりは、一般の人間と同じ度合いのリスクも抱えている人たちと考えるのが自然であろう。まして、教員の周りにいるのは将来の日本を築く子どもたちなのである。子どもたちの健全な育成のためにも純粋培養の教育がいいとは決して言えないのだ。
どんな場合でもそうだが、信頼してお任せしたから…という保護者の責任放棄は一番よくない。世間で起こっていることは学校内でも起こり得ること。あってはならないことだが、万が一のことも頭の隅に入れておいて、社会の目が学内に隈なく行き届く対策が必要だろう。ところが、新聞の紙面には相変わらず教員の不祥事が毎日のように載っている。どういうことだろう。やはり、学校内にはそういうリスク対策がまだ十分に出来ていないということなのだろうか。
 

▼かつて、社会の悪弊が学内に入り込まないようにという配慮のもとに校門や塀を設け、外部の侵入者を防ぐ手立てをしてきた。しかし、学校神話に囚われない目で見れば、学内の子どもたちも必ずしも安全ではないのは明らかだ。ところが、学内の不祥事はなかなか外部には漏れてこない。学級の問題一つにしても、担任は他の先生に知られないまいと必死だ。そして、互いに何事もないかの如く装い庇い合う。逆ではないか。お互いの不足を素直に認め合い、協力し補完し高め合う空気を醸成することこそ必要ではないか。でなければ、その結果が子どもたちにはね返ってくる。

かつて(今でもそうか?)「教師は聖職者だ」ということで、聖職者に相応しくないことは学校では起こりえないし、そういう役割を教員たちに求めるという風潮があった。しかし、これでは教員は苦しい。人として当たり前のことをしてはいけないことになる。どうしてもそれを貫かねばならないとしたら、建前と本音を使い分けなければならなくなる。生徒には嘘をつくな、表面だけつくろうなと言って置きながら、教師自身は絶えず建前を演じなければならなくなる。そういう歪な内実はどこかで噴出せずにはいない(ちなみに、聖職者ということで言えば、神に仕えるというプロテスタントの聖職者が無垢な子どもたちを餌食に何をやってきたかが次々と暴かれている)。

そろそろ学校の先生たちは、聖職者という裃を脱いだ方がいいのではないか。この縛りが教師の創意工夫に満ちた教育活動を難しくし、将来を担う子どもたちの育成をも歪めてしまう。公立学校に勤める教師は教育公務員であり労働者であると認めて何の問題があろう?社会人のどんな仕事も社会的意味を有していることは明白だ。特にそれが教育という分野であれば尚更だ。本来の人権を認められていない者が人権を説くことは空しい。まずは教師に社会人としての当たり前の権利と行動の保証を認めることだろう。そうすれば、教師の世界にことさらに多いように見える問題行動や精神疾患の類も一般の社会人並のレベルになるのではないか。

日本の教育の特異さは、日本の教師の置かれている特異さから生じていると私には見える。本来、教育や文化というものはその社会の活動を土壌として生まれ、花開くものだろうと思う。ところが、日本の場合、江戸の末期以来欧米の国々をモデルとしてきたが、国威を発揚する必要から文化の促成栽培と接木を旨とした。そして、その弊害が今まで続いてきた。しかし、新たな国際化を求められる中で、今や根本的な見直しが求められている。
ただし、こういうゴタクを並べられるのも、私が文部科学省以外のフリースクールという教育機関に携わっている人間だから言えることなのかもしれない。教員の誰でもが自由に思っていることを語ったり行動したり出来ない状況にあるということ…多分、そこにこそ問題の本質があるのだろう。

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私的繋がりからソーシャルネットワークの時代へ(1)

2011年02月15日 | 携帯電話

※「私」から「公」へ、「個」さら「集団」への道----を考える 

(1)携帯電話の黎明期から

▼最近の統計でもはっきり表れているが、今や携帯電話を持っているのは中高生くらいになれば当たり前、小学生でもかなりの子どもたちが手にしている。特に夜、進学塾等からの行き帰りには、子どもたちにとって親と連絡を取り合うための必須のアイテムとなっている。
 さらに、昨年の暮れ辺りからは高機能なスマートフォンの普及が急である。すでにガラパゴス携帯と揶揄される従来の携帯電話と出荷台数で並んだようである。多分この勢いは止まらないだろう。いや、もっと加速するとみていいのではないか。

携帯電話という簡便な個人の通信に適した文明の利器が世間の人びとに普及し始めた時、ご多分にもれず、それを歓迎する者と不安視する者と2つのリアクションがあった。受け止め方の違いは、多分に年齢に比例していたようにも見えた。一般に若い人たちは肯定的に受け止め、高齢者になるにしたがって保守的になる傾向があった。生理的に適応するのが難しくなるということもあるが(アクロバット的なテンキーの操作は中高齢者には難しい)、一方には自分たちが築き上げた既得の価値体系が揺るがされてしまうということもある。簡単に言えば、わけの分からないものが流行り始めたということになる。

▼たとえば、こんな映像がテレビで流されたことがある。携帯電話で親しくなった若者二人が待ち合わせの約束をする。互いに携帯電話で本人と確認し、寛げるお店に入って向き合って座る。ここまではよくある風景だ。が、その後が少々刺激的だった。彼らは互いに携帯電話を取り出し、目の前の相手はそっちのけに何やら話し始めた。その話し相手とは誰か?実は二人とも目も前にいる相手に向かって、携帯電話を通して話していたのである。
 直接、面と向かって話しかければ…と普通なら思うだろうし、そのために誘い合って今会っているはずではないか。が、彼らは初めから最後まで、「じゃあ…」と言って別れるまで一度も面と向かって話すことはなかった。

▼「そんなのはテレビのやらせではないの?パフォーマンスではないの?」とは思う。ニュースの報道はともかく(実はこれもかなり怪しい)、テレビ局が企画した報道であり、映像に登場する男女が全くの素人であり、完全なフィクションとは言えなくても、そこに演出・演技が入り込んでいることは否めない。しかし、そういう企画が成立するからには、やはり「さもありなん」という土壌があったということも事実だろう。「火のないところに煙は立たない」のである。

▼このように、一方にますます私的化するアイテムを手にして集団から離脱する傾向があったとすれば、一方にはそういう風潮を冷ややかに批判する上から目線の伝統的集団論理的マスコミ報道があったということである。そこではマスコミ報道=世論であった。
 そして、その見方を後追いするかのように日本の携帯は独自の進化を遂げた。だが、そのその進化の姿は国際化の道ではなく、日本のネット文化が2チャンネラーと称される独特のギルド的ネット文化を形成したように、携帯電話においてもガラパゴス化という独特の文化を作り上げるに至った。その先にあるのは進化の袋小路であり、未来には続かない道であった
 ところが、ますます孤立化を助長するかに見えた携帯電話が、当初は想像もしていなかった(多分、大部分の人たちは)変容を遂げ始めるのだ。それがスマートフォンの出現であった。

(2)へ続く

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