教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

文科省、35人学級、来年度から実施

2010年08月29日 | 不登校
▼読売新聞8月28日付朝刊によると、文部科学省は来年度から公立の小中学校で35人学級を実現するために、来年度から8年間で教職員を約19,000人増やすという。これも政権交代によって、文科省と日教組が接近したことで実現可能になったことなのだろうか。自民党政権時代には互いに利権の睨み合いが優先し、教育がつんぼ桟敷に置かれてしまっていたことを考えると、まずは教育環境の小さな前進として歓迎したい。
学級人数の引き下げは、45人から40人に変えた1980年以来、30年ぶりのことだという。当時はまだ55年体制が健在で、教育問題も自民党と社会党の政策をめぐる条件闘争の道具に使われた。当時の教職員組合の関係者が言った言葉を今でも覚えている。交渉の席で、文部省の役人がこう言ったというのだ。「で、今度は、何人ですか?40人ですか?」と。
どう言うことか、説明がいるだろうか。海外の教育を調べれば見れば分かることだが、欧米では小中学校の場合、1クラス20~25名が普通である。そして、それがもっとも効果的な形態であることが実証されている。だから、当然日本でも子どもの教育を考えるのであれば、それを目指すクラス規模として掲げるべきである。だが、教組側からはそれが一切なされず、いつも「ここまでなら勝てるかな」「これなら飲んでもらえるかな」の条件闘争に利用されてきた。そこに教育の理想の実現の意識はなく、ただ勝ち負けの政争の具となった教育論争の姿があった。
▼政権交代によって自民党も野党になったことで実質的に悪しき55年体制は終りを遂げた。しかし、これによって全てがめでたしめでたしになるかというと、そう簡単ではない。今、党首争いは激化の一途を辿っているし、党内も保守革新が入り乱れ一枚岩ではない。それに、教育問題一つにしても、自民から民主に衣替えしても、それが必ずしもいいことばかりとは限らない。
現に、教職員組合と各地の教育委員会とのねじれ現象のようなものも起きているし、学校教育の様々な不備がそのまま正当化されかねない様相も見え隠れする。この時点においても、朝鮮学校の授業料無償化は各種学校の規定で通されるようだ。それ自体に異論はないが、それならばなぜ義務教育段階の不登校生が通うフリースクールはその対象にならないのかなぜ、子ども達の学習権を雨ざらしのまま放置しておくのか。まるでバランスが取れていない。中身は一向に変わっていないのかもしれない。
今後の動向によって、現政権や権力の枠組みが教育の進展に相応しいものなのか否か、明らかにされていくだろう。教育を政治の具にはしたくないが、政治は否応なく教育の枠組みを振り回していく。そんな感じだ。

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不登校は誰にでもどの家庭でも起きること──不登校問題と教育行政の対策(3)

2010年08月21日 | 不登校
▼私立学校からの不登校生とその対応の変化
一般の人は、不登校は荒れている公立学校に多いように思っているかも知れない。不登校は知的にも肉体的にも障害を持っている人が多い、いわゆる「落ちこぼれさん」が多いので、それを避けるためにも私立受験が盛況なのだ──と思っている人が多いかもしれない。そして、それを裏付けるかのように、不登校を擁護する立場の人達からもそういう批判を行う傾向があることも否めない事実。
しかし、実際はそう単純ではない。不登校は何も公立学校の、しかも「落ちこぼれ」さんの専売特許ではない。「噴きこぼれ」と言って、学校教育の枠におさまらない能力や個性や可能性を持った子ども達もいるのだ。「学校の勉強は嫌だけれども、IQは140」などという子ども達もいるのだ。事実、私どものところには毎年そういう子どもや私立学校に入ったけれども通えなくなったというような生徒がやって来て勉強し、また飛び立っていく。
確かに、15年ほど前に行なったアンケートでは、当時、一般の私立学校では「不登校生」と聞いただけで門前払いの扱いであった。それだけで受験資格はないというところがほとんどであった。特に有名進学校と言われる私立学校に顕著であった。
ところが、いつ頃からが、そういう私立学校に入学した家庭から毎年、不登校生の相談が来るようになった。中には帰国子女で日本に帰って来てから不登校になり相談に来るというケースもあった(海外での個性が尊重される自由な教育に親しんだ子ほど画一化された日本の教育に合わず不登校になることが多い)。そして、また私達のところから私立受験をすることも普通のこととなった。

▼過去は問われず実力で勝負できる私立受験
公立学校の場合は内申点に拘ったりするので受験の評価は低くなることがあるが、私立の場合には面接と試験で、つまりはその子の実力で挑戦できるので自分の意見をしっかりと持ち成績さえ良ければ逆に楽であるという側面もある。不登校生は学校長から推薦状貰うことなどはまず不可能だが、私立受験の場合にはフリースクールでの成績とスクール長の推薦で県内私立のトップの受験校に合格したということもある。
前述したように、文部科学省下の公立学校の不登校に対する認識や理解はあまり変わっていないが、私立学校の場合には大きく変わったと言えるかも知れない。今では、たとえ不登校になって学校を離れてしまったとしても、私どものようなフリースクールで教科学習やスポーツ等による気力・体力づくりが出来ていて、本人がこの私立学校で頑張りたいという強い意志を示すならば、私立学校は(特殊な情操教育を迫る時代感覚がずれているようなところは論外)他の生徒達と同じ様に、場合によってはそれ以上にその子の個性を買ってくれたりして、門戸を開いてくれている。

▼理解が広がりつつある不登校の現象
確かに、日本の教育システムを当たり前と考え、それに疑義を挟み異を唱えるような親がいることを不思議と思い、そういう人達はどこかおかしいのではないかとさえ思うような風潮がないわけではない。特に教育行政に近い側にそういう人が多い。しかし、子を持つ親の側の捉え方には徐々にではあるが変化の兆しがある
先に見た、私立学校の側の変化もその中に含めてもよいと思うが(公立学校は税金で経営を賄っているが、私立学校の場合は父母の援助に大きく依存し、その要望を反映しなければならない)、民間の側ではたとえある期間に不登校になったとしても、それを貫き通し、その人独自の道を切り開いた人達を数多く観るようになってきた。また、全ての不登校の子が学業不振だけで学校を離れるのではないこと(結果としてそうなることは多いが)、進学校と呼ばれる公立や私立の学校の生徒も不登校になること(今までも県内トップ校の生徒も心を癒しにやって来た)、学校教育だけでは立ち行かなくなってきている現実を理解するようにもなってきている。

▼不登校はどの子どもにもどの家庭にも起こること
少し脇道に逸れるが、子どもはそこが自分の生きる場所ではないと身体で察知して不登校になるのであって、親の社会的立場や都合を考えて不登校になる訳ではない。だから、今までも、一方には生活保護家庭とか片親家庭など経済的教育的にも必ずしも楽ではない家庭の子ども達がいると同時に、一方にはその親御さんが公的な立場で華々しいを活躍されているような人であったり、経済的にはまず心配しないで済むような家庭の子ども達もいたりする。
だが、残念なことに、そういう強い影響力を持つと考えられる人達は自らを不登校の親であるとカミングアウトすることはまずない。立場上伏せていたいのだ。教育行政の側の人も、公式的な話が終わった後に、個人的に「実はうちの息子も…」というように話されたことが何度かある。が、それはそこだけのオフレコの話なのだ。
つまりは、「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるものである」(平成4年9月24日 文部省初等中等教育局長通知「登校拒否問題への対応について」)ということだ。何のことはない、子ども達が身体で持って行動で表したことを教育関係の大人達が跡づけしたに過ぎない。

▼不登校経験者のマスコミへの露出
ところが、一方で不登校に対する民間での受け止め方が大きく変化してきている部分もある。隠し切れなくなったというよりは、かつての不登校生自らがカミングアウトすることを厭わなくなって来ている(「成功者」という但し書き付きだが)側面が確かにある。たとえば、宮本亜門、羽仁未央、雨宮処凛、義家弘介…中にはもと不登校だったことを売りにする教師まで現れた。また、安藤忠雄のように、不登校そのものではないがそれ以上に学校を離れた生き方を貫き大成した人もいる。そういう人達にある程度共通している認識は、そういう不登校体験を経て今があるという認識ではないか。単純に「いい」とか「わるい」ということではなくて、経験→成長というプロセスとして受け止めるということだと思う。そういう認識に至ったからカミングアウトも可能であったとも言える。
いや、中にはむしろそれを武器に、あるいはツールにして、積極的に露出を図る場合もある。いわゆるヤンキー先生とか落ちこぼれ先生とか言うのはその類だろうし、それを不可欠のキャリアーにまでしてしまう場合もある。いわゆる何とかタレントなどの場合は、その経歴自体を芸の肥やしにまでしてしまう。

▼国民的象徴あるいは指導的立場の人の子も不登校に
そういう中で、近頃話題を集めているのが、皇太子の令嬢愛子様や日本の新首相になった菅直人の二人の息子の不登校の話題である。その辺の情報はここで取り上げるまでもあるまい。とにかく、かつて不登校といえば学校教育に適応できない「落ちこぼれ」の代名詞か本人の情緒障害等の問題とされたものである。だが、今はそれで言い切れるか。もしかすると将来日本の女帝となられるかも知れない人や行政の最高責任者の子息さえ不登校となるのである。平成4年に文部省が「誰にでもおこりうる」と半ば言い訳的に予言した不登校は、かくして子ども達自身の行動によって成就されたと言っていいだろう。
しかし、これはそんなことは(文科省が)自我自賛すべきことでは勿論ない。危惧が現実化したということで、むしろ恥ずべきことである。教育行政はなんら根本問題には触れようとはせず、その場しのぎの応急措置を繰り返してきた、その結果なのである。
不登校を見る目はそれでも依然として多くの偏見に囲まれており、市民権を得るにはまだとても厳しい状況にある。しかし、日本のトップ層の人達にまで広がった不登校問題は、良きに付け悪しきに付け、特異な現象と見たり、臭いものに蓋をするようなやり方でやり過ごして来た不登校問題に大きな転換を迫るものになるのではないか。それは取りも直さず、日本の教育そのものが問い直され時が来たということである。

※ちなみに、中学時代不登校だった「フリースクール・ぱいでぃあ」の卒業生の中に、学習院大学の学生となって卒業した女の子もいる。そこで不登校になる子もいればもと不登校生を受け入れもする。学習院といえども普通の私立学校なのである。

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不登校は学校教育の危機を知らせる「カナリヤ」──不登校問題と教育行政の対策(2)

2010年08月19日 | 不登校
▼「夜間飛行」的な不登校問題への関わり
つい先日(8月8日)、私たちは、さいたま市で、教育ネットワーク・ニコラ15周年、フリースクール・ぱいでぃあ10周年の記念イベントを開催しました。そこで、サンテクジュペリの『夜間飛行』になぞらえて、当時の不登校問題への民間活動の側からの取り組みの決意を語ラせてもらいました(当時、まだ文部省や県教委レベルでは、全く不登校問題への取り組みは為されていませんでしたし、今のところ今後の予定もないとのことでした)。
これは今、振り返って思うことですが、当時、不登校問題に突き進んでいくことは、まさに何一つ定かではない闇の空間に飛び立っていく飛行行為に似ていたように思います。『星の王子さま』で知られるサンテクジュペリの作品に、パイロットであった自身の体験に基づいた『夜間飛行』という小説があります。その話に似ているように感じたのです。ただし、いつの世もそのようにして時代は開かれ、橋が架けられてきたのでしょうから、それ自体には何も言うことはないのです。自分の選んだ道なのですから。
ちなみに、サンテクジュペリの『夜間飛行』はライト兄弟の発明した飛行機がリンドバーグの大西洋横断飛行などの快挙を経て、やがて航空輸送機としてまた兵器として発達し始めたその黎明期に南米で夜間飛行の航空郵便事業に乗り出した男の物語です。飛行機とは言ってもまだレシプロ複葉機が主流の時代、今のようにレーダーも天気予報も飛行場のライトさえも完備されていなかった時代の話です。夜間飛行に限らず空を飛ぶこと自体が限りなく死と隣り合わせの行為であった時代だったのです。ちなみに、サンテクジュペリ自身、飛行機事故で亡くなっています
「彼らの仕事は命を懸けるに値するものだ!」と言う彼に対して、取材する新聞記者は「果たして命を懸けるに値する仕事なんてあるのか?」と問いかけます。彼は言います、「だらだらと知識ばかりを蓄えても行動しなければ進歩はない!実践してこそ発見がある。経験が進む方向をつくるのだ。」と。だが、それは市井の人間としての幸せを断念することでもあったのです。そして、彼自身「その幸福を手に入れる機会をすべて放棄し、私は仕事をするための時間にあてた…。我々はなぜ…それに命を懸けるのか?」と人知れず煩悶するのです。

▼教育行政は不登校対策でどんな成果をあげたのか?
あれから15年、一体どれだけの教育公費が不登校対策費の名の下に学校に投入され、一体どれだけの成果をあげてきたのでしょう。学校を離れた子どもとその家庭には義務教育でありながら一切の教育援助を受けられないままに教育棄民の状態に据え置かれてきた、というのが実際なのです。
私達の活動そのものは、「夜間飛行」のような一途な思いで出発し、やがて賛同者や同行者を得、「学びの輪」「実践の輪」「支援の輪」を広げて今日を迎えたわけで、今回の会はその区切りとして、新たに今後への展望(子どもの学習権の推進など)を提示するものとなりました。
しかし、不登校支援活動の歴史とは、そういう民間の側からの活動の歴史であり、教育行政の側からは何一つ具体的な進展のなかったことを確認するものとなったということは残念なことでもあります。そして、いまだに不登校となった本人とその家庭を非難する始末。民間からすれば湯水のように資金を使いながら、未だに対策を検討することにとどまっているということはあり得ないことです。それこそ、事業仕分けの対象ではないでしょうか。

▼不登校生は教育現場の「カナリヤ」
教育活動の中での不登校問題というのは、例えるなら「炭鉱内のカナリヤ」のようなものなのである。今、知る人は少ないと思うが、石炭の採掘作業を行う時に、ガス探知機などがまだなかった時代、炭鉱夫はロウソクやカナリヤのような小鳥を坑内に持ち込み、それによって有毒ガスの有無を確認したと言います。坑内の空気が希薄であったり、有毒ガスが発生した時には、人間より先にまずそれらが異変を告げてくれます。いち早く危険を教えてくれるセンサーであったのです。
それと同じ様に、不登校問題というものは、不登校となったその子が問題なのではなく(そういう気質の子も確かにいるが)、そういう環境に敏感な子どもがいち早く、学校という教育現場がもはや子ども達が生きて行けなくなる危険な状態にあることを教えてくれるセンサーでもあったということである。ここのところを学校等の教育現場にいる教師自身がまるで気付いていないのです。
(3)へ続く
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不登校問題と日本の教育──教育行政と不登校問題(1)

2010年08月16日 | 不登校
▼平成4年頃の不登校への認識
平成4年の報告において<不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでもおこりうる」>と文部科学省自ら認めたのは周知のことでした。しかし、そうは言いながら、学校教育法を盾に、当時は学校教育の側は善であり、学校を離れる子ども達の側に問題があるというのが本音の認識でした。
▼不登校生が通うフリースクールへの対応
この認識は今も基本的に変わっておらず、フリースクールに通う場合にも、<これらの児童生徒の努力を学校として評価し支援するため,我が国の義務教育制度を前提としつつ,一定の要件を満たす場合に,当該施設において指導等を受けた日数を指導要録上「出席扱い」とすることが可能となっています>と述べています。
しかも、<この「出席扱い」は,当該施設への通所または入所が学校への復帰を前提とし,かつ不登校児童生徒の自立を助ける上で有効・適切であると判断される場合に認められます。その際,保護者と学校との間に十分な連携・協力関係が保たれていることが重要です。また,民間施設における指導等に関して「出席扱い」が考慮される場合には,当該民間施設における指導等が適切であるかどうか,学校長と教育委員会が連携して判断することとされています。>という但し書き付きでした。
▼言葉だけの文科省の指導・訓示
子ども達が学校での教育を拒否しているという事実があるにもかかわらず、あたかも、自分たちが判断することが「絶対善」であり、そのお達しに従わせるという発想に些かの疑念もないように見えます。しかし、教育現場はいつも文部科学省の通知などを機械的に実行することしかやって来なかったのです。そこに子どもの存在はなかったと言えます。あったなら、不登校生が現在のような状態で置かれているはずがないのです。
その辺の状況については、こう言い訳をしています。<状況への配慮のない強引な登校への促しや機械的な働きかけにより,児童生徒やその保護者を追い詰めるようなことがあってはならないのは当然であり,大切なのは,不登校児童生徒の状態や不登校となった要因・背景等を把握した上で,適時・適切に,かつ個々の状況に応じて対応するという姿勢なのです。>言葉だけなら何とでも言えることです。
▼「やりました」という文科省の言い訳
さて、机上の文言はいいとして、実際に文部科学省はどういうことをやってきたのでしょうか。<平成15年3月,協力者会議により報告が取りまとめられ,早期の適切な対応の重要性や連携ネットワークの構築などの提言がなされています。>と言います。そして、<文部科学省においては,平成15年度から「スクーリング・サポート・ネットワーク整備事業(SSN)」を実施し>たと言っています。
また、こうも言っています。<また,これまでも,学ぶ意欲を育み,進んで登校したいと思えるような学校づくりや,スクールカウンセラーの配置等による教育相談体制の充実などに努めてきたところです。今後も,不登校児童生徒の学校復帰や社会的自立に向けた支援を学校内外で総合的に充実させていくこととしています。>と。
▼不登校生抜きの不登校対策事業とは…
ああ、ずいぶんお金をかけて立派な対策事業をやって来たんでしょうね。でも、一体、誰に向けてやったんでしょうか?実際の不登校生のいる現場やそういうお子さんのいる家庭にはまったく届いていないんですよね。お役所仕事とはこういうことを言うのでしょうか。
ちなみに、平成19年6月の定例議会において、当時の島村和夫教育長は次のように答えています。
不登校児童生徒の居場所づくりを行っているNPOなどが運営する、いわゆるフリースクールについては、不登校対策に貴重な役割を果たしております。
議員御提案の「NPO中間支援センター」に関しましては、複数のNPO代表者から、御意見を伺ってまいりました。
あわせて、フリースクールを運営している県内のNPOに対して、行政にどのような支援を望んでいるかなど、アンケート調査も実施したところでございます。
お伺いした範囲では、行政に対して、活動場所の提供や財政的な支援を望む声はありましたが、NPO相互の連携や情報交換に係る要望はございませんでした。
県といたしましては、今後もNPOの方々の御意見をお聞きしながら、不登校対策に係るNPO活動について、行政としてどのように関わるべきなのか、行政として果たすべき役割はなにかなどについて、引き続き検討をしてまいります。>
つまり、検討するだけで具体的には何もやらない、ということですね。
(2)に続く
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■大人の世界&子どもの世界─「子ども」とは何かの一考察(2)

2010年08月03日 | 「子ども」とは何か
「クレヨンしんちゃん」から 臼井儀人 作

▼大人の世界からは見えない風景
次元の問題とでも言えばいいのでしょうか、もし、この世がビッグバンによって誕生したとするなら、この宇宙の内部に生きる人間はそれ以前の世界やそれとは別の世界を見ることはできないでしょう。同じことが子どもである彼らにも言えそうです。彼らがもし、大人の常識の住人となったなら、もはや大人の常識を相対化する目で見ることはできなくなるはずです。そして、彼らの住んでいたかつての世界はガラス細工かおとぎの城かのように崩れ落ちてしまうことでしょう。もし、それでも彼らがそれを維持していたとするならば、それはもはやまともな大人とは見做されない、精神に障害のある人と見做されるか、奇人変人となるしかないでしょう。

▼「欠落」しているという価値の視点
ところが、5歳の子どもである彼らは、まだ5歳であるという年齢そのものによって大人の世界にいることを容認され、庇護されているのです。しかし、実は「クレヨンしんちゃん」と「コボちゃん」では大きな違いがあります。それぞれの作者の年代の違いから来る据える視点の違いとか、伝統的な家族であるか核家族か、もっと広く言えば作者自身の人生のスタンスが奈辺にあるか、というような作品が書かれる外的な要因だけに留まらず、二人の主人公の設定には大きな違いがあるように見えます。
「5歳児の欠落」とは言っても一様ではないのです。一つはまだ未発達の段階でそれを獲得していない場合、つまり今後学習することによってその欠落が補充されるという場合です。もう一つはそのような学習だけでは恐らく埋め切れないないだろうと考えられる場合、つまり大人とは別の価値基準を持っていて大人が良しと考える範疇では一つに統合できない場合です。例えば、「コボちゃん」は前者であり、「クレヨンしんちゃん」の場合は後者と言えるかもしれません。

▼コボちゃんとクレヨンしんちゃんの明日について
「コボちゃん」の場合には、今はただそこに立ち止まっているだけであり、その欠落は今後の「学習」によって容易に埋められ、問題なくそのまま大人の世界に入って行くことができます。彼はやはり「普通」の世界の住人なのです。
ところが、「クレヨンしんちゃん」の場合にはちょっと事情が違うように見えます。作者晩年のアニメではクレヨンしんちゃんが小学校に通うようになった場面も登場しますが、それでも彼は5歳のしんちゃんのままなのです。もし、彼がそのままつつがなく学校生活を送るとするならば、それは本来の彼の死を意味したはず。残念なことにしんちゃんの物語は作者の突然の死によって中断してしまいましたが、もし作者が存命であったとしても、5歳のしんちゃんには大人への成長物語はなかったのです。

▼大人に愛される「コボちゃん」と敬遠される「しんちゃん」
「コボちゃん」は読売新聞の朝刊の社会面のトップを飾り、多くの読者に愛されている四コマ漫画です。「コボちゃん」があるから読売新聞はやめられないという読者までいるようです。
それに対して、「クレヨンしんちゃん」の場合は、PTAのアンケートでも「子どもに読ませたくない」本のトップにランクされ、情操教育等を重視するお母さん方からはすこぶる評判が悪いようです。これはどういうことなのでしょう。

▼「クレヨンしんちゃん」とは何か!?
これは理屈というよりは本能的な嗅覚による判断でしょうか。でも、それは─その価値観の評価は置くとして─ほぼ正確に的を得ているように見えます。そして、さらにより本能的な地平を生きている子ども達の反応はもっと鋭い。
「コボちゃん」に例えられることには笑って応えられる彼らは、自分が「クレヨンしんちゃん」に例えられることには激しいい拒絶反応を示すのです。これは単に大人の価値観の反映とだけでは片付けられない問題を含んでいます。

▼子どもが子どものままでいられる世界
では、その子は「クレヨンしんちゃん」が嫌いかというと、決してそうではないのです。「クレヨンしんちゃん」が大好きで、暇があれば進んで「しんちゃん」を読む子なのです。一般に子ども達は「クレヨンしんちゃん」が好きです。放っておいても読んでいます。読みながら声をあげて笑ったりもします。
たとえ自分とは同じではなくても、そこには一緒に興じられる世界があり、仲間がいる。自分を飾らなくてもいい、ありのままの自分を受け入れてくれる心地良い世界がそこにある。そんな感じなのかもしれません。

▼大人になれない子どもを生きれば…
しかし、大人の論理からはそれはそのまま容認できない世界なのです。たとえ子どもに従って一時的に認めることはあっても、永続させてはいけない世界なのです。大人になるためには、やがては消えるべき、克服すべき世界なのです。特にママゴンの「教育的見地」からはそう見えるのでしょう。
「コボちゃん」の世界はやがて時が解決してくれます。児戯を微笑ましく見守ればいいのです。ところが、「クレヨンしんちゃん」の世界は大人の世界にそのまま繋がるレールがないように見えます。彼はいつまでも子どもであり続けるか、それが不可能ならば大人の領域にあって異物・異端としてあり続けるかです。人がそれをなんと呼ぶか、それは大人の都合の問題です。「正常な大人」ではないということで、時には「カッコ」を付けたりある種の病名で呼ぶことも出て来るのかもしれません。
(一応、終わり)
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■「5歳」という子どもの問題─「子ども」とは何かの一考察(1)

2010年08月02日 | 「子ども」とは何か
『クレヨンしんちゃん」№1 臼井儀人作

▼「5歳」という漫画の主人公たち
前にも述べたことがあるかも知れませんが、ギャグ漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公も、四コマ漫画「コボちゃん」の主人公も、共に「5歳」です。この年齢設定は故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は見ています。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えています。ただし、作者たちもそう思っているかどうか私は知りません。

▼既成概念を持たない子どもの年代
「5歳」という問題に直接入る前に、上大岡トメ氏という漫画家が『しろのあお』(副題:小学生に学ぶ31のこと)という作品の中で、小学4年生を作品の主人公に据えた理由を次のように書いています。「コミュニケーションもしっかりできて、また既成概念も少ない小学生、特に小学校生活のちょうど中間地点であり、コドモらしさを残している4年生を主人公として選びました」
もし、小学4年生が上大岡氏の言うような存在だとすれば、5歳児のしんちゃんやコボちゃんはまだ小学生になる前のコドモです。上大岡氏の言を借りれば、「既成概念」を持たない「コドモ」そのものの存在なのです。ただし、「コミュニケーション」はまだ覚束ないという条件も備えて。

▼大人の論理の世界以前の子ども
言い換えるなら、小学生はまだ「らしさ」は残っているもののもはや「コドモ」そのものではない。学校に上がったというその時点から、曲がりなりにも「既成概念」を身にまとい、大人の論理の世界の約束事に従うことを受け入れた「コトナ」という存在なのです。
では、「しんちゃん」や「コボちゃん」という5歳を主人公とする漫画が、人畜無害な無党派的な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ません。人は人である限りにおいて政治的たらざるを得ない生き物なのです。そういう意味では「しんちゃん」も「コボちゃん」も極めて政治的党派的な存在なのだと言わざるを得ないのです。

▼漫画家の意図的必然的な選択?
ただし、彼ら子どもという存在が政治的党派的であるというのは、まさに彼らが「5歳」であるということそのものにあるのです。そして、彼らは本来は人(大人)への成長物語となるはずの入り口に立ち、「5歳」という原点にとどまり続け、そこから動こうとはしません。むしろ、これらの漫画ではこの「5歳」という設定が他では代替できない積極的な意味を持たされているように見えます。どういうことなのでしょうか。
その解答の一つは、その子ども達には大人の常識の世界に入るための決定的な条件が欠落しているということ、言い換えれば、まだその年齢に達していないということがあります。
もしかすると、彼らを主人公に据えた漫画の作者たちは、その欠落した条件をこそ、稀有の価値と認識して、大人にとって当たり前とされている価値観を、笑いとギャグによって相対化する意識革命を試みたのだと言えなくもありません。
(2)に続く

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