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月刊教育雑誌『ニコラ』やフリースクール・ぱいでぃあでの実践活動を通して長年不登校の問題と格闘してきたので、単に研究を通してだけではなく実践を通して、段々と色々な側面が見えるようになってきた。その一つに
不登校と環境の問題がある。一人の子どもが様々な体験を通して段々と学校に行くのが辛くなり遂に心ならずも不登校となってしまう過程には、その子が置かれている育ちの環境問題が大きく影響しているのは否めない事実である。〈不登校?うちの子は登校拒否なんだけど…〉という家庭の子どもの場合も、この点ではさほど大きな違いはない。不本意ながらそれを受け入れたか、積極的不登校というような形でそれを受け入れたかの違いがあるくらいだ。(それこそが大きな違いだ、という意見はこの際保留にしておく)
▼例えば
欧米とアジア圏では〈不登校〉そのものの扱いが違うのではないか。以前ぱいでぃあにアシスタントとして関わり今はアメリカにいる若者は、学生時代にイギリスにホームステイした経験があるが、そこの家の子は不登校でいわゆる公立学校には通っていなかった。しかし、本人も家族もそのことを殊更問題にはしていない。
学校には行かないからと言って、日本のように白い目で見られることもないし、そういう子どもは(富裕層に多い)そういう子ども達で付き合う別のグループがあるからだ。彼等にしてみれば、
帝王学は必要だが労働者になる臣民教育は必要ないということではなかったか。このように文化圏によっても不登校の扱いは大きく違ってくる。
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日本で不登校や引きこもりが殊更に意識されるのは、〈出る杭は打たれる〉という諺があるように、
同質性を善とし異質な存在を悪しとしたり、〈長いものには巻かれろ〉という諺があるように、
権威権力に逆らわないことを旨とする政治文化風土が大いに関係していると言える。以前、引きこもりが欧米の注目を浴びたとき、ABCやBBCの記者やカメラマンたちが入れ替わり親の会等を取材に訪れたが、
彼等の好奇の眼差しはその生態だけでなく明らかにそれらを癌的な異物のように問題視する日本という国の文化風土にも向けられているように思われた。〈個〉が認められない全体主義的風土の国家ーそれが日本という国に対する彼等の印象ではなかったろうか。
▼そういう環境の中で大部分の日本人が育ってきたから、勢い社会感覚をまだ十分に身に付けていない子どもや若者の行動は適切な振る舞いを知らない半端者の行動のように映る。
文化とはあくまでも後天的に学習して身に付けたもの。子どもや若者の無意識的な何気ない行動や、その子にとってはとても自然な行動が日本の社会文化的な規範の前で規制の対象となることも珍しくない。しかし、以前であれば子どもの側のどんな反発や抵抗も力でねじ伏せられてきた。ビートルズのファッションもそうだった。しかし、
そういう規制は段々強い反駁に会うようになってきた。それは
良質の部品を大量に生産することを要請された学校教育においてもしかりだった。いつの間にかビートルズは学校の教科書にまで登場するようになった。
学校現場からの大量の不登校もこういう流れで生まれたものだ。
▼だから、
不登校という現象は、集団的全体主義的な行動様式に対する個の価値を掲げる側からの異議申し立てなのである。しかし、当初は教育現場の教員たちもその事実を認めようとせず、個人的な情緒障害の問題で処理しようとした。
あくまでも教育者にとっては学校は善であり、学校を離れる本人にこそ治すべき精神的問題があるとした。しかし、それが少数であったならばそう片付けることも可能だったろうが、遂に13万人の不登校生が出現するにいたって、時の文部省もそれは特殊な子どもだけに起こるのではなく様々な要因が作用すれば
〈どの子にも起こりうる〉と認めざるを得なくなった。このことは
日本の子どもたちは場合によってはどの子にも不登校が起こり得る環境(生育的・教育的)にあることを文部省自体が認めたということである。
▼勿論、知的精神的な個人的要因が大きく絡んでいる場合がないではないが、
不登校自体は殊更問題にすべきことではないことを認めた方がいい。言うなれば、不登校という現象は子どもの新しい要請に応じられなくなった学校が、自らが変わろうとする努力を放棄して、不登校という現象をあたかも抹殺しなければならない異物のように扱うことから生まれでたものなのである。一言で言えば、
不登校は学校教育が創り出したもの。本来、良いとか悪いとかの基準で分別するような類のものではないのだ。
▼現在、東京のチャレンジスクールとか埼玉県のパレットスクールとか、不登校への対症療法的な措置として、
不登校の子ども向けの公立学校が何校か誕生し、さらに増やそうという方針のように見える。しかし、それは本当の解決策ではあるまい。
公教育に何本もの基準を持ち込むだけである。既に高校教育は上中下3本の基準が分けられる(一流の有名大学への受験を掲げる高校、Fランクも含め何とか大学と名の付くところにへの進学を目標とする高校、そしてほとんど大学は目標になく高卒の資格取得を最終目的とする高校の3つ)。それが更に細分化され益々高校教育の収拾がつかなくなるだけの話だ。
必要なのは高等教育の体裁を保ちながらなるべく不登校を生み出さない学校教育を運営することだろう。そのためには学校教育の定義そのもの、〈人は何のために教育を必要とするのか〉ということを改めて見直すことが必要だろう。
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かつて、学校が学習塾を目の敵にした時期があった。しかし、今や学校教育を補完する形で学習塾が存在するだけでなく、学習塾抜きの学校教育は存在し得ない有様である。
学習塾は学校教育にとって必要不可欠の存在となりつつある。
それと同じことが今、学校とフリースクールの間で起きてはいないだろうか。〈学校とはどういうところか〉と問われるとき、決まったように言われる言葉がある。〈学校は勉強をするところである。学校は社会性を身に付けるところである〉と。この前者は既に学習塾に取って変わられた。そして後者は今、フリースクールが批判している、〈学ぶ主体はどこにいるのか〉と。
現在の学校は、教員の生活費を稼ぎ出す職場であって、子どもの学び場でも社会人となるためのスキルを積む場でもなくなっているのだ。
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