教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から

2009年12月27日 | 社会

現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から

▼驚くべき政治家の事務所の経理の杜撰さ
とうとう鳩山首相の元秘書二人が偽装献金事件で起訴され、首相は「誠に申し訳ない」と陳謝した。これは今後の政権運営にとって相当の痛手であろう。人が集まり人が動くとなれば、どんな組織でも金銭も動く。ポスター一枚作るにしても費用がかかる。だから、組織と名の付くところでは、法人のような公的な組織ではなくても経理は大事な仕事である。これなしには組織は動けない。だから、組織のあるところにはその大小にかかわらず必ず経理の責任者が必要であり、規模が小さくて大して金額の出入りがある仕事ではなくても経理に弱ければ税理士など経理の専門家に依頼することも多くなる。それが天下の政治を司る組織であれば当然、事務所には経理の責任者がいるはずであり、それが出来なくてどうして税金に基づく政治を行うことができるだろうか。

▼日本の政治の変化の兆し
ところが、驚くことに今回の鳩山氏の場合に限らず、政治家の事務所というのはその金額が数百万、数千万、時には数億万の単位になろうとも、経理に関してはまるでザルで杜撰な場合が多いのはなぜか。あえて明確に処理しない方策がとられていると言えなくもない。こういう膿は今後至る所で出していかなければならない。しかし、なぜこういうことが今までまかり通ってきたかといえば、それは結局のところ国民がそれを許容してきたからである。やはり、国は国民に合った政治や政府しか持つことは出来ない。それが今回、小沢氏や鳩山氏の献金問題を契機にして脚光を浴びるようになったということは、ある意味政治の進歩であり、おそらく自民党政権では不可能であったことであり、政治のチェンジを示す出来事として評価すべきことかもしれない。

▼旧態依然のマスコミの悪アガキの姿
マスコミはこの時とばかりに鳩山政権叩きに奔走し、民主党と言えども自民党と何ら変わりはないということを国民に示そうとしているかのように見える。しかし、大事なのは相手を批判すればそれで批判者の株が上がるわけではないということ。言い換えれば、批判するということは、やがてはその何倍もの風圧となって自分に返ってくる覚悟を持つことでもある。こういう一連のマスコミの報道の姿勢が、逆に旧態依然たる物差しを抜け出ることのできないマスコミの悪アガキの姿にも見えてくるから不思議だ。

▼政治的貧困の日本の風土の中で
見方を変えてみよう。今、鳩山氏の偽装献金が問題になっていて、さすがは大資本家のボンボンの金銭感覚は庶民とは違う、という側面は大いにある。しかしそれでも、貧乏人の私がそういう彼を庇うところがあるとすれば、その金は私腹を肥やすために使われたものではないということに尽きる。我欲に長けた他の政治家のように彼は闇金を肥やす術を知らなかったのかもしれない。また、そんな発想を持つ必要もなかったのかもしれない。だから、彼にとって政治は算術ではなかった。しかし、実際の政治には莫大なカネがかかる。それに、彼がいくら企業献金から個人献金への変化を訴えても、そもそも殆どの日本人は私腹を肥やすことには熱心でも他人のためには金を出そうとはしない。この傾向は特に資産家に強い。だから、彼は何億ともいう金を新しい政治の実現のためにつぎ込まざるを得なかったのだ。改めて問う。鳩山氏批判を繰り広げるマスコミを支持する資産家や小金持ちのうち、一体どれだけの人が他人のためや、この国の政治のために自らの資産を投入してきただろうか。

▼政権交代の必然性
キリストの聖書のヨハネの黙示録の一節には、イエスの言葉として「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という有名な言葉があるが、そういうことが今の鳩山由紀夫首相批判にもそのまま当てはまるのではないか。鳩山首相の所信表明演説に対する各党の代表質問で、民主党の財政試案に対する自民党の谷垣氏の批判に対して「あなた方に言われたくない。(中略)こんな財政にしたのは誰なんだ」と言い、普天間飛行場の移設問題に関しても「今まで10年以上結論を出さなかったのは、どの政権なのか」と言い放ったことがあった。言うまでもなく、政権は交代すべくして交代したのだ

▼マスコミの「正義」を検証しよう
これは資産家か否かの歪曲された話(もちろん大きな命題だが)ではない。この国は何を求めどこへ向かおうとしているのか、何を選択し何を行おうとしているのか、という問題なのだ。そこで、マスコミも何を目的に、何を言おうとしているのか…とくと検証する必要がある。もしかして、それは古い物差しを振り回しているだけなのではないか…ということもなくはない。それに、場合によっては、マスコミの報道は国民を覚醒に導くのではなく、洗脳によって固定的な見方に導くことだってないわけではない。思えば60数年前、私たちは大政翼賛的なマスコミの「正義の報道」によって、戦争・敗戦という苦い経験を舐めている。

▼現代に相応しいマスコミの報道のあり方
マスコミはなるべく事実を客観的に報道することに徹するべきだ。それが難しいなら、自分たちの報道の姿勢を明らかにし、必ずしも客観的報道ではないことを素直に認めるべきだろう。それが現代に相応しいマスコミの報道姿勢のあり方だと思う。マスコミには報道の自由だけでなく、報道の価値付けの自由も、報道しないで見ぬ振りをする自由もある。だから、今さら言うまでもないことだが、マスコミの報道=客観的ではないのである。それに、もはや国民の声(=頭)をマスコミに代弁してもらう時代でもない。我々もまずはそういうマスコミの言葉や報道をしかと検証することから始めなければならない。

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現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から

2009年12月27日 | 社会

現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から

▼驚くべき政治家の事務所の経理の杜撰さ
とうとう鳩山首相の元秘書二人が偽装献金事件で起訴され、首相は「誠に申し訳ない」と陳謝した。これは今後の政権運営にとって相当の痛手であろう。人が集まり人が動くとなれば、どんな組織でも金銭も動く。ポスター一枚作るにしても費用がかかる。だから、組織と名の付くところでは、法人のような公的な組織ではなくても経理は大事な仕事である。これなしには組織は動けない。だから、組織のあるところにはその大小にかかわらず必ず経理の責任者が必要であり、規模が小さくて大して金額の出入りがある仕事ではなくても経理に弱ければ税理士など経理の専門家に依頼することも多くなる。それが天下の政治を司る組織であれば当然、事務所には経理の責任者がいるはずであり、それが出来なくてどうして税金に基づく政治を行うことができるだろうか。

▼日本の政治の変化の兆し
ところが、驚くことに今回の鳩山氏の場合に限らず、政治家の事務所というのはその金額が数百万、数千万、時には数億万の単位になろうとも、経理に関してはまるでザルで杜撰な場合が多いのはなぜか。あえて明確に処理しない方策がとられていると言えなくもない。こういう膿は今後至る所で出していかなければならない。しかし、なぜこういうことが今までまかり通ってきたかといえば、それは結局のところ国民がそれを許容してきたからである。やはり、国は国民に合った政治や政府しか持つことは出来ない。それが今回、小沢氏や鳩山氏の献金問題を契機にして脚光を浴びるようになったということは、ある意味政治の進歩であり、おそらく自民党政権では不可能であったことであり、政治のチェンジを示す出来事として評価すべきことかもしれない。

▼旧態依然のマスコミの悪アガキの姿
マスコミはこの時とばかりに鳩山政権叩きに奔走し、民主党と言えども自民党と何ら変わりはないということを国民に示そうとしているかのように見える。しかし、大事なのは相手を批判すればそれで批判者の株が上がるわけではないということ。言い換えれば、批判するということは、やがてはその何倍もの風圧となって自分に返ってくる覚悟を持つことでもある。こういう一連のマスコミの報道の姿勢が、逆に旧態依然たる物差しを抜け出ることのできないマスコミの悪アガキの姿にも見えてくるから不思議だ。

▼政治的貧困の日本の風土の中で
見方を変えてみよう。今、鳩山氏の偽装献金が問題になっていて、さすがは大資本家のボンボンの金銭感覚は庶民とは違う、という側面は大いにある。しかしそれでも、貧乏人の私がそういう彼を庇うところがあるとすれば、その金は私腹を肥やすために使われたものではないということに尽きる。我欲に長けた他の政治家のように彼は闇金を肥やす術を知らなかったのかもしれない。また、そんな発想を持つ必要もなかったのかもしれない。だから、彼にとって政治は算術ではなかった。しかし、実際の政治には莫大なカネがかかる。それに、彼がいくら企業献金から個人献金への変化を訴えても、そもそも殆どの日本人は私腹を肥やすことには熱心でも他人のためには金を出そうとはしない。この傾向は特に資産家に強い。だから、彼は何億ともいう金を新しい政治の実現のためにつぎ込まざるを得なかったのだ。改めて問う。鳩山氏批判を繰り広げるマスコミを支持する資産家や小金持ちのうち、一体どれだけの人が他人のためや、この国の政治のために自らの資産を投入してきただろうか。

▼政権交代の必然性
キリストの聖書のヨハネの黙示録の一節には、イエスの言葉として「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という有名な言葉があるが、そういうことが今の鳩山由紀夫首相批判にもそのまま当てはまるのではないか。鳩山首相の所信表明演説に対する各党の代表質問で、民主党の財政試案に対する自民党の谷垣氏の批判に対して「あなた方に言われたくない。(中略)こんな財政にしたのは誰なんだ」と言い、普天間飛行場の移設問題に関しても「今まで10年以上結論を出さなかったのは、どの政権なのか」と言い放ったことがあった。言うまでもなく、政権は交代すべくして交代したのだ

▼マスコミの「正義」を検証しよう
これは資産家か否かの歪曲された話(もちろん大きな命題だが)ではない。この国は何を求めどこへ向かおうとしているのか、何を選択し何を行おうとしているのか、という問題なのだ。そこで、マスコミも何を目的に、何を言おうとしているのか…とくと検証する必要がある。もしかして、それは古い物差しを振り回しているだけなのではないか…ということもなくはない。それに、場合によっては、マスコミの報道は国民を覚醒に導くのではなく、洗脳によって固定的な見方に導くことだってないわけではない。思えば60数年前、私たちは大政翼賛的なマスコミの「正義の報道」によって、戦争・敗戦という苦い経験を舐めている。

▼現代に相応しいマスコミの報道のあり方
マスコミはなるべく事実を客観的に報道することに徹するべきだ。それが難しいなら、自分たちの報道の姿勢を明らかにし、必ずしも客観的報道ではないことを素直に認めるべきだろう。それが現代に相応しいマスコミの報道姿勢のあり方だと思う。マスコミには報道の自由だけでなく、報道の価値付けの自由も、報道しないで見ぬ振りをする自由もある。だから、今さら言うまでもないことだが、マスコミの報道=客観的ではないのである。それに、もはや国民の声(=頭)をマスコミに代弁してもらう時代でもない。我々もまずはそういうマスコミの言葉や報道をしかと検証することから初めなければならない。

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鳩山氏の政治個人献金偽装から思うこと

2009年12月24日 | 社会

「個人の偽装献金」から思うこと

▼マスコミの偽装献金報道
「個人献金とは故人献金のことか」とマスコミが言っている。いわゆる鳩山首相の偽装政治献金のことである。このことについては今朝(12月24日)の読売新聞でも「民主イズム 首相作った鳩山家の富」というタイトルで克明に追っている。この読売新聞は主筆の渡辺恒雄氏の民主支持?(個人的には、中国・韓国・皇室外交に対する小沢一郎氏の一連の行動や発言を支持しているように見える)にかかわらず、マスコミの本能なのか、判官びいきもあるのか、民主党を裸にすることに熱意を燃やしているように見える。その辺が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類か報道の力を笠に着てあることないこと針小棒大に語るあるマスコミとは違って面白くもある。

金のかかる伝統的政治からの脱却を
さて、その読売の記事を読んでも改めて政治とは金のかかるものだと考えさせられる。しかし情報の伝達も新聞テレビに代表されるマスコミによる「お墨付きの正しい情報」の一方向の伝達からインターネットに象徴される双方向の時代になった今、こういう金のかかる政治のあり方も変わらねばならないのではないか。それに、日本も一翼を担う「お上の言うことだから」「長いものには巻かれろ」式の政治風土が支配する儒教文化圏においては、まず日本が西欧文化思考の洗礼を受けたとはいえ、民主的な政治形態が根付いているとはとても言えない。

国民の側を向いたインターネット時代の政治
しかし、インターネットや携帯電話などの双方向メディアが行き交う時代に、それでいい筈がない。国民の声は現場にあるのだ。もう何年も前になるか、それまでは定職もなくほとんどフリーターに近い生活をしていた若者が一念発起して市議選に挑戦し、期間中自転車に幟を立てて市内を練り歩いていたのを思い出す。そして彼は見事に当選し、その後も再選を果たし、現在は行動・風格ともに見事に市議たりえている。アメリカの大統領選でオバマ氏が知名度においても資金力においても圧倒的に優位であったクリントン氏に勝利したのもインターネットによる草の根民主主義の行動力と「塵も積もれば山となる」資金力によるものだった。もしかすると欧米以上にインターネットや携帯電話に入れ込む日本にもそういう可能性はあるのだろうか。

個人献金の集まらぬ日本の政治風土
鳩山氏が政治家として新鮮に映ったことの一つに、日本の政治家には珍しい時には「宇宙人」とも揶揄される明晰な論理的思考力の他に(その分、現実への対応力が育ちからしてもイマイチか)、「政治とカネ」の癒着からの脱却の手段として企業献金に頼らず個人献金に基づく政治を志向したことがあった。鳩山兄弟はいわゆる大資産家の2世3世のボンボンには違いないが、政治に取り組む姿勢が違うと思わせるものがあった。だから、鳩山氏ならその知名度からしてその個人からの集金力も相当なものだろうとも思ったものである。ところが、実際には個人からの献金は限られたもので、個人献金ならぬ故人献金の偽装工作を行い、大部分は彼の母親から援助を受けたものであることが明らかになった。このことには様々な意見があろうが、それは他の人に任せよう。それよりは、そんな鳩山氏にさえ微々たる個人献金しか集まらない日本という国の政治風土の貧しさに想いを馳せる。

善意を寄せる市民と完全無視の教育関係者
何を隠そう。私たちNPO法人教育ネットワーク・ニコラの運営するサイト「いきいきニコラ」にも個人献金(寄付金)呼び掛けのコーナーがある。みなさんの「善意と浄財」をお願いしますと。が、残念ながら「ナシのつぶて」である。そういう中で毎年本当の浄財を寄付して下さるのはかつて私どものフリースクールに通い、今はめでたく目的の大学へ入学し学生生活を謳歌している大学生のお祖母ちゃん。その子のお母さんがいつも暮れに持ってきてくれる。その他は地域のメセナ活動に力を入ているある企業の寸志のみ。たぶん、国家保障の無償の義務教育とはいえ学校を離れた子どもたちには一切の教育費援助はなく、フリースクールの活動の窮状も知っているであろう学校教育関係者からの心遣いというものも今まで一度もあったことがない。自分は公立学校で給料を稼ぎ、子どもには「こんな公立学校に来るな。私立学校に入け」と進学塾の勉強に駆り立てていてもである。

双方向の情報システムを現実の社会変革に
この国は、政治も教育もどこかおかしい。まともではない。不平を言い、批判はするが、誰も自らやろうとはしない。やろうとする者の足は引っ張るけれども、手を貸そうとはしない。日本の大部分の資産家は自分の財産の目減りには敏感だが、その資産を社会に還元しょうとする発想をまるで持っていない。現在、市場を巡回しているのは貧乏人の哀れなカネである。これでは日本の経済も政治も好転するはずがない。遂にインターネットや携帯電話の双方向社会がやって来た。が、日本の場合は結局のところ軽薄短小の社会に終わってしまうのか。権威をバックにしたマスコミの報道とは違う世論を形成したのはネット族の功績だが、ネットを住処とする限りにおいては現実社会に何の影響力も及ぼさない。せっかく手に入れた双方向の情報システムを現実の社会変革に役立てる手段はないものか

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