教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

全国学力調査の結果「開示」に賛成……偏狭な学校的価値観の打破を

2008年12月24日 | 教育全般

asahi.com(朝日新聞社):学力調査結果「開示すべき」 埼玉県情報公開審査会答申 - 社会

「全国学力調査の結果について、埼玉県情報公開審査会は24日、県内のすべての市町村別、学校別の成績データを開示すべきだと埼玉県教委に答申した」という。「仮に答申通り県教委が公開すれば全国初」のことになるという。

それに対して、埼玉県の上田知事は「大事なのは(学力以外の)色々な価値観があることを学校現場で教えることだ」と応えたようだ。

公開すべきかどうかの議論の前に、まず全国学力テストは必要なのかどうかという議論がある。が、最後の牙城と思われた犬山市の教育長が解任される事態に及んで、もはやテストそのものへの反対行動はないだろう。では、それは本当に是であるのかと言えば、ここにいくつもの反対意見がある。

が、実施することで足並みが揃ったのなら、適正な実施方法にこそ意を注ぐべきであろう。せっかくやったのにそれを活用しないというほうはない。今回、「県情報公開審査会が検討した結果、「調査の適正な遂行に支障を及ぼす『恐れ』については、いずれも具体的なものになっているとは言えない」という結論に達したのなら、なすべきことは、上田知事の言うように、教育現場に「色々な価値観があること」を鋭意徹底させ、具現化させることではないか。

教育行政が作り上げたものなのか、学校の教職員の価値観によるものなのか、今まで学校の中には極めて偏狭で融通の利かない「学力」という名の価値観しか計る物差しがなかった。その結果、「角を矯めて牛を殺す」というようなことをやってきたのだ。これは端的には、学校の教職員のキャパシティの狭さによるものである。今、学校を離れる子どもたちの中に、そういう狭い物差しで計られることに辟易している子どもがかなりの割合で存在する。不登校生の何割かは学校教育の偏狭さが作り出したものなのである。社会が一人の人間を図る物差しはもっと複雑で多様である。

子どもの教育を考えると称する一部の教職員には極めて悪名高いこの全国学力テストを、そういう悪しき教育の価値観を根本から変えるバネとしてはどうだろうか。


子どもと携帯電話(1) 「原則禁止」措置から思うこと

2008年12月21日 | 教育全般

 政府の諮問機関として「教育再生会議」が安部内閣の下で発足したとき、その内実は戦前回帰を夢見たとてもアナクロ的なものであったが、福田内閣になった時に、それを廃止して「教育再生懇談会」として再出発した時、それは同じ内閣の諮問機関とはいえ大きく異なるものであった。一般に、「何もしない内閣」として福田内閣は評判が悪かったが、安部内閣のような時代錯誤・反国際社会感覚的な法制度をどんどんやるくらいなら、何もしないでいる方がよほど生産的というものだった。福田氏の設けた教育再生懇談会は現状に沿った教育の視点をいくつも出してきている。これは福田内閣の最大の功績(?)かもしれないと思っている。

 正直なところ、文部科学省が2008年7月25日、各都道府県教育委員会教育長等に宛てて「児童生徒が利用する携帯電話等をめぐる問題への取組の徹底について(通知)」を発信したとき、教育界からは「えー、今さら!」「もう無理じゃないの?」という声もあり、すでに「遅きに失した」感があった。だから、文部科学省は居丈高に拳を振り上げてはみたものの、落としどころに困惑している様子も伺えた。

 そこに来て、今回の大阪府の橋下知事の積極採用の支持発言である。彼の思考には短絡的で視野狭窄的な側面も見られるが、今回の決定はかなり真っ当である。これで一番ほっとしているのは言いだしっぺの文部科学省かもしれない。

 子どもたちと携帯電話の(特に弊害に関する)問題はいろいろ出ているからここで改めて書かないが、結論から言えば《賛成》である。使い方によっては優れた文明の利器であるには違いないが、(子どもと同列には論じられないが)「猫に小判」「キチガイに刃物」の喩えもある。民主主義の原点(?)という人もいるが、拳銃を子どもの自由にさせるわけにはいかない。まかり間違えばテロや自爆のための道具と化す。携帯電話も性格は同じである。

 私はフリースクール(ぱいでぃあ)を運営しているが、正直、携帯電話については悩まされてきた一人である。で、文部科学省が教育再生懇談会が提言を出すよりだいぶ前から、スクールの中での「携帯電話禁止」を打ち出していた。

 そもそもフリースクールにやってくる子どもたちは学校の中ではクラスに一人いるかいないかの《特異》な子どもたちである。だから、いきおい、その子どもたちと携帯電話との関係も学校での問題に輪をかけた特異なものになる場合もある。ただし、この《特異》ということは、そういうこどもたちが必ずしもマイナス的な価値だけを体現しているのではないのと同じく、必ずしもマイナス的な価値を表しているだけではない、ということは抑えておきたい。

※この問題に関しては、また触れることになるかもしれない。