教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

もしも我が子が不登校になったなら----親のあり方、フリースクールへの関わり方

2015年06月08日 | 学校教育と不登校

我が子が不登校になったとき、親御さんはどんな態度を取られるのだろうか?私達のように不登校問題に取り組み始めて20年以上、実際に不登校の子ども達をフリースクール(ぱいでぃあ)という場で日々接し支援し始めて15年以上になるのとは違って、大抵の場合、親御さんたちは人生上で初めての経験であり、「不登校問題の初心者」と言ってよかろう。
しかし、親御さんたちにはそれなりに人生経験も豊富であり、子育てのプロであるというプライドもある。ここに大きな落とし穴がある。親は子どもを持って初めて親となるのであって、人生経験はそれなりに豊富でも、親としての経験は子どもの年齢と同じなのである。しかも不登校の子どもの親になるということは全く「想定外」のことであったはずである。

子どもが不登校になってフリースクールの門を叩くまでには様々な経過があったと思われる。子どもが不登校になったから即フリースクールへという例はまずない。我が子が不登校になったとき、親御さんがまず最初に行うのは子どもへの「登校刺激」であろう(そこには少なからず我が子が問題という意識がある)。それを何回やってみても上手くいかないとき、「学校の担任の先生に相談」する(慌てた担任の先生がまず取る態度は、自分や学校の指導が問題ではない、生徒の側の問題ではないかということ。他の生徒達は問題なく学校に通っているのだからと)(ただし、親御さんには我が子にも問題があるかも知れないが、もしかしたら第一の問題は担任の先生や学校側の対応にあるのではないか、という意識も芽生えているかもしれない)

▼とにかく、我が子が不登校になった原因を、我が子か担任の先生の応対のせいではないかと疑うのが最初は多いようである。しかし、内心ではもしかしたら幾ばくかは「自分に原因」があるかも知れないと思う親御さんもないわけではなかろう。しかし、「そんなことはない」と無意識に否定していることも多い。とはいえ、子どもも担任の側もすんなりと「自分に原因がある」と認めることはまずなかろう。自尊心があり、職業意識があり、プロとしてのプライドもある。でも、我が子の不登校状態は一向に好転しない。登校を強要する親に激しく抵抗さえもする。
それまでは親は子どもを無条件に愛し、受け止め、子どもの味方の存在であったはずである。だが、だんだんその立ち位置もあやしくなってくる。

▼どうにも埒が開かなくなった親御さんが次に行くのは、学校外の相談機関や医療機関であろう。一般に「不登校は病気ではない」と言われる。その言い方にはそれなりの理由がある。決して無責任に言っているわけではない。しかし、奇妙なことに不登校になった子どもの親御さんはほぼ判で押したように医療機関の判断を仰ぐ。確かに医者は医療についての専門家である。しかし、教育の専門家ではない。ところが、親御さんはもちろん、そこに行くことをすすめた教師までもが、医療的見立てだけでなくそれ以外の門外漢的な教育的な診立てについて述べられたことをも何の疑いもなく受け入れ信じてしまうことが多い。「医者の診立ては絶対」と考えて教育的観点を簡単に放棄してしまうことも起きてくる。

▼今回ここで「医者との関わり方」については脇においておくが(別の機会に詳しく論じたい)、結局そこでも満足できなかったり、医学ではすべて解決できないと感じた親御さんが最後に訪ねてくるのが、フリースクールという学校教育外の民間の教育機関である。だから、学校や教育委員会を含む教育行政的関わりではもう駄目、しかし医療機関だけでも駄目という経過を経てきているわけだが、フリースクールというところは親御さんにとって今まではその存在すら知らず、我が子が不登校になって初めてネット等で知った教育機関であることが多い。だから、その存在理由も、その存立基盤も、活動内容さえも知らないことが多い。だから、スーパーのチラシに群がる消費者のように、広告の派手さや謳い文句に容易に食いついてしまうことも起きてくる。

フリースクールの実際については別の所で詳しく論じたいが、フリースクールはその数だけ色々な考え方があると考えていい。「医者選びも命のうち」と言われるが、同じくフリースクール選びもとても大事な作業である。場合によってはその子の生き方を大きく方向付けてしまうことにもなる。フリースクールをどういう基準で、何を目的として選ぶか---大いに考え悩んでいただきたい。心身の状態、知的な状態、そして我が子の何が可能になるか---どれだけ悩んでも悩み過ぎることはない。しかし、そういう親御さんの側からのフリースクール選びと同時に、逆にフリースクールの側からもその子の特性や能力などの把握からどう関わるのがベストであるかという観点から、親御さんの要望やフリースクールに期待することなどを伺い、できるだけ生かそうとすると同時に、いろいろなタイプの子ども達を立ち直らせてきた経験から(教育学のような学問の世界とは異なる)、どうしても譲れない点、親御さんに何としても理解してほしいことがある。子どもの立ち直りを真剣に思えばこそである。(逆に、そういう子ども達を収容することを主眼とする施設ではいつまでもいていいような関わりを優先させることになる)

フリースクールに来たということは、家庭だけでも、学校や教育行政と相談しても、カウンセリング機関や医療機関に相談しても、どうしても我が子への関わり方に納得が行かず、最後の支援機関としてやってきた場合が殆どであろうと思う。言わば他では万策尽きてやってきたのである。ならば、なおさら今までの関わりの反省の上に相談に来てほしいもの。ぜひそれまでどういうことを言われたか、どういう診立てをもらったか、検査データはどうであったか…それまでの全ての資料を見せてほしいと思う。中にはそれをつくろって相談に来る人がいるが、それでは後で問題になるだけである。
そして最も大事なこと、それは医者を信頼しその処方に従えばいいときに、医者を信頼せず自分流の判断で勝手に薬を飲んだり飲まなかったりすることが時には命に関わる大きな問題にもなるように、フリースクールに来たならばその方針に従わなければ得られる結果も得られなくなることがあるということである。

よく学校で「モンスターペアレント」と言われる親御さんがいるが、それは我が子を思うあまりか学校の先生の話を受け入れなくなって一方的に学校側を攻撃する親御さんに使われる言葉のようだが、同じことは不登校の子を持つ親御さんの場合にも容易に起きること可能性がある。しかし、家庭にいるだけでは道は開けず、様々な機関を渡り歩き、最後の拠り所としてやって来られたのであれば、そのスクールの方針に従うことが子どものためであろう。「よくここまで辿り着いたね。ここなら安心だよ。君の自信回復、君の立ち直りを支援してあげるね」とフリースクールが責任を持って引き受けたならば、ぜひその支援の仕方を尊重してほしいものである。
逆に言えば、我が子を不登校のままいつまでも親子の共依存的な関係の中に置いておきたいのであれば、そのフリースクールが設定した「自立達成のプログラム」を無視して勝手な活動を続けていればいいということになる。そういう信頼関係が成り立たないところでは、そのフリースクール本来の関わりや支援の方法が行えなくなってしまうからである。

具体的にどういう問題が親御さんにあるのか---そのことについてはおりおり取り上げていきたいと思う。「古いものは半ば崩れたが新しいものは未だ形を成していない。だから、取り敢えず今までの方式でやっていく」というのが親としての「賢明な対応」ということになるのかもしれないが、そこに創造的な教育的関わりを見ることは難しい。そのことによる矛盾や戸惑い、苛立ち、ストレスなどが色々なところに噴き出してくるように見える。
渦中にいる子どもや親御さんにはなかなかそこが見えない。見えない中でもがいている。それがよく見えてくるのは5年後、10年後であったりする。もうぱいでぃあを飛び立って随分経った頃、「あの時はよく分からなかったことが今はよく分かる」という親御さんの感想を頂いたりする。それだけの年月が経って、時間と空間の隔たりが出来て初めてそれを客観的に眺められるようになったということであろう。「私が悪かったんですね。当時は自分のことに精一杯で、子どもがどんなに苦しんでいるか、ぱいでぃあさんに言われてもよく分からなかった」と

(続く)

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