教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

財団法人日本相撲協会は廃業せよ

2007年09月30日 | 「大人のフリースクール」公開講座
時津風親方 斉藤さんを介抱せず見殺し(スポーツニッポン) - goo ニュース

おそらく時津風部屋のこういうやり方は、何もこの部屋に限ったことではなくて、日本相撲協会のそのものの体質となっていたのではないか。これは財団法人のやることではない。やくざの世界の出来事である。それが「国技」という名の下に堂々とまかり通っていたということである。現在の親方衆も北の海理事長もそれをよしとする環境の中で育ってきたのである。

平成の時代になってから現在に至るまで8人の死亡者がいるとのことだが、その中には今回の犠牲者・序の口力士・時太山こと斉藤俊さん(当時17)のように明るみに出ることもなく葬り去られた人もいるのではないか。親方の命令が絶対で弟子たちもそれに家畜のように盲目的に従い、人間として考えることをしない。そういう殺人者が弟子たちを指導し、現在の相撲協会を成り立たせていると言ったら過言だろうか。儀式や対面を優先し、「人間」の感情を失ってしまった集団がここにある。そういう連中が今後「立派な力士」として衆人の前で相撲を取ることができるのか。

「国技」という上辺だけの作られた儀式がどこまで通用するというのか。17~18才で日本にやって来て20才幾つで大関や横綱になる外国人力士たち。3Kの世界に敢えて飛び込んできた彼ら外国人が日本の国技を支えているという奇妙な構図がここにあるが、あえて言えば、彼ら外国人は好きで相撲界に入ってきたのではない。金になるからである。だから、年端も行かない年代の彼らに、「国技」だの「伝統」だのを理解させること自体が無理な話であり、アナクロ的である。そんな上辺だけの真似事で日本の伝統を理解し、体得できるものなのか。日本の伝統とはそんな薄っぺらいものだったのか。

他の様々なスポーツと比べても、日本の相撲は異様である。闘犬や闘牛と同じようにその競技に適したように人の形としては極めて不自然な歪な体型に作り変え(メタボの病人の体を人工的に意図的に作り上げている)、相戦わせる…これは人権無視、人間性否定の行為ではないか。国技と呼ぶにはあまりにも恥ずかしい競技・興行である。

この際、財団法人日本相撲協会はいらない。活動を停止すべきである。NHKも国技としての放送を中止すべきである。国技という名のやくざ集団を即刻廃業すべきである。それ以外に解決の方法はない。

日本のスポーツ・体育の問題…力士死亡事件から

2007年09月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

今、相撲協会が揺れている。事は朝青龍問題だけではない。日本相撲協会の体質、ひいては日本のスポーツ界(体育会と言った方が正確か)全体の体質の問題である。その遠因は学校教育の場での体育指導にまで遡る

横綱審議会をはじめ、日本相撲協会は朝青龍問題を彼に謝罪させることで決着を図りたい方針のようだが、「ちょっと待て!」である。日本相撲協会のやり方に誤謬はなかったのか?このことについて、私は先に日本相撲協会の指導等を含めたその体質の問題に言及している。彼はそういう協会の体質に嫌気をさしていたのではないか。日本の伝統、文化、国技と言うが、そこに支配しているのは、殿様に可愛がられる力士というような極めて古い体質の日本的感覚であるようだ。そういう日本相撲協会の体質に疑問を持った外国人の力士たちが反旗を翻し始めたというのがこの問題の根底にあるのではないか。もはや外国人抜きにはこの相撲という国技を維持できなくなっているにもかかわらず、相変わらず国技だの伝統だのと言って世界の非常識を地で行っている

そういう相撲を日本を代表する国技として支えているのは、その興行を残らず放送しているNHKである。ところが、横綱朝青龍問題をめぐってテレビ番組で協会批判をしたとして、北の海理事長自らがNHKの元アナウンサーの取材証を没収するという事件が起きた。幸い東京相撲記者クラブが同日、北の湖理事長(元横綱)に対して即座に処分の撤回を求める抗議文を提出したことで取材証は戻されたが、外部の批判を許さず封じ込めようという意図がそこには露骨に表れていた。世間の常識からかけ離れた唯我独尊的体質がそこにはある。

今回の時津風部屋の若手力士死亡問題もそういう氷山の一角である。この際、徹底的な法による検証がなされるべきであろう。平成になってから8人の力士が死亡していながら、警察も医者も入らず日本相撲協会の古い隠蔽体質の中で内々に処理されてきたのだ。今回、遺族が行動したことによって初めてそれが明るみに出されたわけだが、その親もまた対応を完全に誤ってしまった。部屋を逃げ出した息子の声を親として受け止めるどころか部屋の論理で息子を説得する側にまわり、その結果息子を死に追い込んでしまった。(学校の論理で子どもを説得し自殺させてしまった親とよく似ている)

日本のスポーツ界にはたくさんの摩訶不思議が行き交っている。特にスポーツに「~道」という名が付いているところにそういう危ないのがあることがある。とかく根性論が先行しがちである。学校教育の現場もそうである。特に指導で実績のある有名な先生には注意したほうがいい。それで学校に行けなくなる生徒がとても多い。文化部では吹奏楽部がこれに並ぶ。何故か。教師は意識・無意識に関わらず生徒を、できる生徒・できない生徒、大会に役立つ生徒・役立たない生徒と分類して指導するのである。そこには生徒一人ひとりの思い(スポーツを楽しむこと)にたった指導はない。連続県大会出場とか全国大会制覇とか、生徒はその有名教師の名誉を高めるための駒でしかない。それでやめる生徒は今も後を絶たない。

今、日本のスポーツ、体育のあり方の全体が問われている。


日本相撲協会には何の誤謬もないのか

2007年09月25日 | 「大人のフリースクール」公開講座
白鵬優勝一夜明け…朝青龍、あっさり主役奪回(夕刊フジ) - goo ニュース

朝青龍が日本に来たら、何もかも悪かったと謝罪させる…そんな雰囲気である。若気の至りとでも言うのか、彼も周りの目を気にしない馬鹿な振る舞いをしたものである。このことに弁解の余地はない。しかし、…しかし、である。日本相撲協会の対応に問題はなかったと言えるだろうか。

相撲は日本の国技と言われながら、高見山をはじめ多くの外国人が土俵に上ってきた。そして横綱、大関など主要な地位を占めるようにもなってきた。外国人枠はあるが、もはや外国人力士抜きに日本の国技である相撲そのものが成り立たなくなってきているのが現状である。それなのに日本の相撲は国技という伝統に胡坐をかき、現代の国民にあうよう変革する努力を忘れているかのように思われる。

ここ何年間も相撲人気は下降線を辿っているという。観客は年寄りが多く、若い人は少ないのだとか。そんな相撲の人気をかろうじて支えているのは外国人力士の活躍に負うところが大きい。相撲の国際化が確実に進んでいるが、柔道のように生き残るためにはそれも止むを得まい。ところが、アジア、ロシア、欧州などへの広がりを持つ一方で、ハワイが去り、トンガが去り、かつて日本の相撲を支えていた国々が日本相撲協会の方針を拒絶する形で袂を分かっていく。何よりも学業半ばで相撲界に入ろうとするような若い日本人がいなくなってしまった。

それは日本相撲協会が国技の伝統に固執するあまり、日本の社会の現状に応えられなくなっているからではないのか。相撲は国技であると同時に国際的なスポーツになりつつある。それなのに日本相撲協会はそのための努力をどれだけしたのか。そのような協会のあり方を国会議員も批判していたし、相撲番組を提供しているNHKの中からも批判があがっていた。しかし、日本相撲協会はそのような批判に応えようと努力するどころか、逆に封じ込めようとする反応さえ示したのである。

果たして日本の相撲は21世紀に相応しい国技として脱皮できるのだろうか。朝青龍問題は朝青龍という個人の力士の問題を超えて、国際社会の中での日本の国技として、日本の伝統スポーツがどう生き残っていくことができるのかという大きな課題を我々に提示して見せたのである。


相次ぐいじめ自殺事件…

2007年09月15日 | 教育全般
 これは隣の市(川口市)の出来事だが、つい先日中学1年生男子のいじめ自殺があったが、今度は同じ市で中学2年生女子の自殺未遂である。ともに高層ビル(マンション)からの飛び降りである。校長は相変わらずの「命の大切さ」を訴え、専門家は対策マニュアルのような報告書を作成する(昨年11月の本庄市の男子生徒の自殺の報告書ができたと言う)。が、一向にこの種の事件はなくならない。

もし、その子たちやそのご家庭の保護者等が私どものところに相談に来ていれば、こういうことにはならなかっただろうとと思うと、とても残念である。実は、昨日はスクールの子どもたちと上野の国立科学博物館に「失われた文明展:マヤ・アステカ・インカ」に行ってきたが、その後でもいいからぜひ相談に乗って欲しいという依頼が入っていた。そこで夕方から、そのご家族とご本人とお話しすることになった。

やってきたのは小学1年の男の子とそのご両親。現在、完全な不登校であると言う。学校、担任教師やその友達たちに激しい拒絶反応を示している。相談に来たのは子どもを見ての軽はずみな行動ではなく、よくよく考えた末の思い余ってのことであった。訊いてみると確かに多少「普通の子」からすれば変わった傾向のある個性的な子である。だが、なぜ様々な病名をつけ集団には異質な存在と決め付けてしまうのか

本人は至ってかわいい。「他動傾向あり」ということらしいいが、ちゃんとおとなしく座って話を聞いている。人は認められ受け入れられていると感じれば無意味に騒ぐことはないのである。疲れていたのか、途中で眠ってしまったが、見方によっては自分が安心できる場ではこのように無防備に自分を晒しだせる。大人の話が終わって帰るとき、「また、ここに来てもいい?」とクリクリした目を向けて聞いてきた。もうこの子は大丈夫、安心である。ご両親たちは、「このまま学校に無理やり通わせても、将来は作業所のような生活が待っているだけなんです。そうではない、この子に合った自立して生きていける道を与えてあげたいんです」と語っていた。早く相談に来てくれて良かった。この子に合った歩みができるなら、この子は大きく成長していける、そう思った。

先の話に戻るが、飛び降り自殺を図った中学生たちには、共通したことがある。それは学校側から強い登校刺激を受けていたこと、そして保護者が“学校の要請に応えようと”しきりにその後押しをしていたということである。自殺を図った子どもたちには、学校にも家庭にも居場所がなかったということである。その時、一人でもいいその子たちの思いを受け止めてあげる人が側にいたならば、その子たちはあたら若き命を無駄に散らすことはなかったのである。

人を孤立無援の状態におくこと…辞任表明した安倍首相を見るといい…それは大人にも耐えられることではないのである。無責任と言われようと空気が読めないと言われようと、心身を守るためには、そこから身を引くことが懸命な、唯一の方法なのである。


安倍首相辞任表明から思うこと

2007年09月15日 | 「大人のフリースクール」公開講座

政治の世界は怖いですねえ。

党首会談を断られたと言って辞任を表明した安倍晋三氏は、麻生氏に裏切られたと口走ったそうな(あるブログでは麻生は背後から安倍の背中を刺したも同然だと言っていた)。会談を断ったとされた小沢氏は「え?オレ、そんな話聞いてねーよ」と言ったとか。何でも、下痢をしてまで海外に行っている間、会談の設定を麻生氏や与謝野氏に頼んでいたはずが、戻って見ると、そういう会談はもたれるようにはなっていなかったのだとか。「もう、安倍抜きで行こうや」ということになっていたらしいのだ。だから、安部の言葉ではもう誰も動いていなかったらしい。

安倍氏が頼りにしていた塩崎氏や下村氏たちは「お友達感覚ではだめだ」ということで、もう安部氏の周りにはいなかった。だから、誰に相談するわけにもいかなかった。

突然の辞任発表であった。無責任と言われようが空気が読めない奴と言われようが、安倍氏は心身ともに限界であったようだ。そんなあっと驚くタメゴローの辞任会見の後、政局は麻生氏を軸に展開するように見えた。麻生氏の顔には否定しても否定しようのない笑みがこぼれていた。麻生派はその後ひそかに麻生先生を祝して祝杯をあげたのだとか。そのためには、間髪をおかず、一気に麻生主導でもっていく必要があった。次期総裁選びの日程は早ければ早いほど良かった。ところが、思わずもらした麻生氏の不用意なひと言が情勢を一変させることとなる。麻生氏は安倍氏からすでに数日前に辞任の相談を受けていたというのだ。

そのひと言が党内に一気に波紋を広げた。何で今まで黙っていたのか!?怒り心頭に達した派閥もあったようだ。もう麻生氏は信用できないという派もあった。そして、もっと時間をという声が党内の大勢を占め、麻生氏主導で動いていた政局は一気に麻生氏包囲網の政局へと変わってしまった。かくして麻生氏と与謝野氏によるクーデターは失敗した。

一夜にして、政局は福田氏待望論の大合唱となった。安倍氏が権力のトップへの挑戦をした時、彼は完全に蚊帳の外に身を置いた。安倍氏とは何の関わりも持とうとしなかった。その彼が、いよいよ真打ち登場と言うのか、ほっほっほっ、ふっふっふっ、いやー困りましたなー、本当に私でいいんですか。じゃーしようがありませんなー。と、幾分鼻の下を長めにしてご登場になったというわけだ。

「いじめはいけません。学校からいじめを撲滅しましょう!」なんて一大キャンペーンさえ張るが、何のことはない、政界はまさに伏魔殿、いじめどころか、揚げ足取り、密告、裏切り、良い子ぶりのパフォーマンス等、子どもたちにはしてはいけませんことのオンパレードである。

なるほど、老獪な能力と言うのはこういうことを言うのかという趣である。安倍氏はやはり若すぎたのだろうか。が、それだけではない。2世3世議員であった安倍氏はあまりにもお坊ちゃま育ち過ぎた。辛苦を舐めている国民の現実を何も知らないところで彼は育ってきたようだ。望みさえすれば何でも与えられる子どものように。そんな彼に日本国の難局を任せるなどそもそも無理な要求であったのだ。2世3世の子弟の中にはその特権的に恵まれた環境を巧みに活かす者がいると同時に、それにぬくぬくと溺れ貪る者とがいるのである。

それにしても、政界のサラブレッドだからという理由だけで安倍氏を政権のトップにすえた自民党もどうかしていた。それにいくら若手議員とはいえ、議員生活を13~4年もやっているのだ。首相にすえて見てどこかおかしいといまさらのように気付くと言うのも変な話だ。これはもはや単に安倍氏だけの責任ではないだろう。自民党そのものの体質が問われている。小泉氏はかつてJ党をぶっ潰すと言っていたが、本当に自民党はぶっ潰れてしまったのだろうか。この党が本来持っていた絶妙なバランス感覚はもうどこにもないように見える。歪み変質し硬直化したこの党の残骸があるだけである。国民がそっぽを向くのも無理はない。

さて、ふっふっふっの福田氏は、このボロ雑巾となった自民党を立て直すことができるのだろうか。それとも55年体制の担い手の片方の社会党が急速な没落をたどったように、もう一方の担い手であった自民党も同様に滅びの道を辿るのであろうか。貧乏くじかどうかは福田氏の手腕で決まる。

今、政局が面白い。

 


『ザ・小学教師』を読んで

2007年09月10日 | 教育全般

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「知ることは共に生まれること」(ポール・クローデル)
 connaitre = con + naitre

『ザ・小学教師』を読んで
          (宝島社 1260円)

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


2007年9月9日発行というから、今日が発売日ということであろうか(実際は一ヶ月も前から店頭に並んでいる)、ムック本の出版社「宝島社」から『ザ・小学教師』というムック本が新たに出版された。以前に『ザ・中学教師』というムック本が出版されているから、その小学校教師版と考えればいいだろうか。

ザ・中学教師』版には「ザ・中学教師~不思議の国の中学校に棲息するセンセイたちのありさま」というサブタイトルがつけられていたが、今回の小学教師版には「現場教師の視線で作ったホンネの小学校&教員ガイド」「ニッポンの明日を占う! 最後の“聖域”小学校のありのまま」と銘打たれている。

なぜこんな本を取り上げたかと言うと、この本の制作に、こういう問題に意欲的に取り組んでいる知人のフリーライターが関わっているということと、この本が  お世辞にも書棚に飾るべき優れ本ではないが  教師の今を考えるには格好の一冊であるのには間違いないからである。とりわけ、現場の教員が  事件などの非日常を取材することは良くあることだが  学校での日常を悲喜こもごも赤裸々に語ることはあまりないからである。学校内の出来事は一般には「部外秘」扱いなのだ。もちろん、読ませる記事であるから、この内容を鵜呑みにするような愚かなことはせず、  よくぞ調べたと言おうか、ここまで書くかと言おうか、さもありなんの内容がたくさんある  適当に差し引いて読むことも必要であろう。

「それにしても…」である。大きく章分けだけを列挙すると、〔プロローグ学校がへんだ!? [第一章校門の中の非日常第二章〕〔モノいう親と子〕 〔第三章先生たちの黄昏プロローグ小学校の未来は?(民間人校長)となっている。これが次世代の子どもたちを預かる学校現場の実態であるか…と考えると、正に日本の将来に対する暗澹たる気持ちにならざるを得ない。プロローグや一、二章などは社会で起きている様々な事象の荒波はもはや校門や塀では防ぎようがなくなっている学校現場の現実を語ったものであり、それはそれで教師の奮闘の大変さを慮る配慮も働くと言うものだが、第三章の「先生たちの黄昏」に至っては、「これはダメだ」と絶望しないわけには行かない

それを紹介する前に、このムック本の表紙を見て欲しい。これはシュールレアリストの絵画を模したものであろうか。吹きすさぶ暗雲の空の下、歪んだ校舎が建ち、キリコの輪回しの少女が一人走っていく。それを遠景とすると、そのこちら側の真ん中には後ろ向きの男が一人(教員であろうか?どこか農水省の何とか絆創膏大臣を想起させる)背中を見せて立っている。(多分、少女の姿をぼんやりと眺めているのだろう)生気はなく、背は傾き、背広はよれよれに汚れている。風景の暗雲のうねりはどこかムンクの叫びの背景を想わせる。そういう表紙である。

この章を読むと、もしかすると問題は子どもたちや親たちではないのかもしれない。最大の問題は教師にあるのではないか…そんなことを考えさせる。ロリコン教師、不登校教師、教師という“エリート”、職場結婚、教師の不倫、職員室の嫌われ者、現場派と出世志向派、コネと学閥、団塊の世代問題、先生たちの職業病、常勤講師・非常勤講師、“出世”すごろく、熱血教師は今、先生たちの裏稼業……社会不適応だから学校の教員になったのか、先生になったから社会不適応になったのか。一度勤めたらよほどの問題でも起こさない限り路頭に迷うことはないたちだが、上に逆らわず、周りに波風立てず、内部に変化を求めず、何事も大過なくやり過ごすこと…そういう学校の先生たちが次世代の日本を建設する子どもたちを育成する事業に関わっているという、何というこの逆説!絶望的な学校の現実、とりわけ先生たちの現実がここにある。ここに手をつけずに日本の教育の改革はあり得ないのではないか

現在の学校の姿は、まさに歴代の為政者が教育に望んできたことの成果である!」という見方が一方にあるが、単なる傍観者ではなく、日本国を愛する国民として自分もまたその当事者の一人であるという認識に立つならば、これはそろそろ何とかしなければならない事態である。そう多くの国民が考え出したのではないだろうか。文部科学省や教育委員会もそうであろう。そして、その切り札の一つとして登場したのが「民間人校長」の登用と言うシステムの採用であった。この本の最後にもその項が設けられている。

では、それは本当に救いの方法となったであろうか。答えはイエスともノーとも言えない。そもそも学校長と言う存在はどんな存在なのか。学校の中では教頭と並ぶ管理職であるが、これは一種の名誉職である、民間の会社の管理職とは大きく異なる。人事権もなく予算執行権もない。学校運営の実務からは切り離された学校行事や地域活動のお飾りに過ぎない。全ての執行は教育委員会に判断を仰がねばならないのだ

2006年4月現在の統計では、民間人校長は総勢102名、うち小学校は23名という。かつては銀行や自動車会社やビール会社などの第一線で働いていた人たちである。彼らは学校の教師たちと何が違うか。単年度プランではなくローリングプランであること、PDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)の導入、そして顧客第一主義で組織力を活かしブランド力を高めること…などが民間人校長に共通したところであろうか。

ところで、顧客とは誰か?得てして学校という組織では教師が主人公で、子どもたちを商品のごとく扱いっていることが多いが、本来、学校では授業が商品であり、子どもたちは顧客なのである。そして、CS、文字通り顧客満足が第一なのである。学校という事業を継続させるためには「顧客の視点で、品質を保証し、新たな商品を開発」しなければならない。ところが、税金を消費するだけで企業体の活動によって利益を生み出しそれによって企業を維持発展させていくという経営感覚のない教員たちは、この点で大いに錯覚していることがある。教員たちはすぐに「では、子どもたちを甘やかせということか」とか「子どもたちに迎合していては教育にならない」とか言い出しそうだが、そういうことではない。学校には子どもたちの社会的自立を図り、社会参加できる人間を育てるという目標がある。それを確実に成し遂げているかということ、そしてそれを評価するためには学校外の外部の目も必要であるということである。校長の諮問機関として学校評議員制度があるにはあるが、機能しているとはとても思えない。現場に入った民間人校長はそのような視点の導入や斬新な改革によって、学校に様々な新しい息吹を送り込んだようである。

では、民間人校長の登用は成功であったか。実際は必ずしもそういう成果をあげられたところばかりではない。期待はずれであったり、既成の教育の壁にぶち当たったり、逆に取り込まれてしまったり、教育に対する勘違いの場合もあったようだ。2003年3月には広島県尾道市の小学校の民間人校長が自殺する事件も起きている。また、これは中学の場合だが、しばしばテレビで杉並区の和田中学の藤原和博校長の「世の中科」の授業が放映されたり紹介されたりしているが、逆に考えると、そういう例しかないのだとも言える。ということは、教育現場に民間人校長を登用するという小手先の対応ではもはや改革は不可能なところまで来ているのではないか

では、日本の教育を変えるには何が必要か。それは今までの教育のシステムそのものを変えることであろう。「文部科学省はいらない。教育委員会はいらない。」そういう意見があるが、本当にその辺から根本的に変える試みをしなければ、日本の教育の再生はあり得ないのかもしれない。

ムック本であって、必ずしも記述や視点に統一が取れているわけではなく、玉石混交の趣が強いが、小学校教師の話題に限らず、学校問題全般を考える場合にも、ある程度有効な内容ではある。


数学を考える楽しさをあなたに

2007年09月04日 | 教育全般

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「知ることは共に生まれること」(ポール・クローデル)
 connaitre = con + naitre

 数学を考える楽しさをあなたに

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 「数学力って何だろう?そんな特殊な能力って本当にあるのだろうか?」文系の人間は時にそんな羨望をもって数学の得意な連中を眺める。「どうしたらそんな素晴らしい能力を獲得できるのだろうか。それともそれは先天的に備わった能力なのだろうか。」…多分、そんなことを考えている人間は意外に多いのではないか。
 
ここに数学に感動する頭をつくる』(栗田哲也著・株式会社ディスカバー21 1500円+税)という本がある。著者は雑誌『大学への数学』などにも寄稿し、駿台英才セミナーで数学オリンピックを目指す生徒を相手に講師も務めているという。

ひところ「分数の出来ない大学生」などというフレーズが流行り、日本の生徒の学力低下、とりわけ算数・数学の計算力等の低下が叫ばれたが、この著者によれば、それはセンター試験が重視する計算力や作業力の低下であり、発想力や推理力の低下であるかどうかは分からない、つまりこれをもって数学力の低下とは言えず、むしろ、単に日本人の勤勉さが少しなくなってきただけではないかという。(後者の力についてはむしろ、OECDのPISAの国際比較テストの結果等から判断した方がいいのかも知れない。)

ところが、世間ではそれらの知識や技術とそのために必要な能力とを一緒くたにして「数学的能力」と誤解して来た。そして世の親たちはその能力をどうしたら身に付けられるかを知りたがっているのだと。しかし、教科書には定理や公式の説明や簡単なドリルの繰り返しがあるだけで、その方法はどこにも書かれていない。

そこで本書の登場となるわけだが、本書のタイトルを見て欲しい。この本はハウツーものではない。著者によれば「数学力」をつけるということはスポーツの習得に似たところがあるという。上達するためにはいろいろな能力が必要であり、日々鍛錬し戦術を理解することが必要だという。それにはコツコツ卒なくこなす予習復習ドリル型では進歩は望めず、熱中すること集中することが大事だという。つまり、それが本書で言うところの「感動する頭」をつくることである。

音楽には「音感」というものがあるように、数学にも「数感」というようなものがある著者はいう。昨日まで聴いていた音楽が全く違う響きを持って聞こえてくる音楽での体験を引用しているが、これは数学の場合も同じだという。ある日突然、数学って何と美しいものかと気付く。生命の神秘や芸術作品への感動するのと同じく、数の不思議さに感動するのだ。が、それは誰でもが体験できることではない。そのためにはかなりの修練がいるのだという。

文科省のカリキュラムで言えば、こういう数の不思議さに出会えるのは高校生のレベルになって複素数や微積分を扱う段階になってから。その時、「数感」の発達した人は数の神秘に出会えるという。が、そうでない人にとってはただ面倒くさい計算の固まりにしか見えないのだとか。

しかし、それでもなお、「数学力」というものを信じ、そういう能力を身に付けたいと思っている人に著者は言う。「数学力なんてものは存在しない」と。数学の能力にはいろいろあり、簡単に伸ばす方法など語れるわけがない。特に受験目的の数学の勉強でそれを身に付けるのはそれが難しいと。では、その能力を伸ばすにはどうすればいいのか。それは熱中して解こうとすること、解けそうもないような問題に自力でぶつかるという一見効率の悪そうな学習法にある著者は言う。


ここで多少、著者について触れておきたい。数学が得意で、数学が好きで、しかも文系であるということが理系だけの人間には見られない幅のある数学的な物の見方を獲得しているように見える。しかも自らが「数学力」とはこういうだと語るのではなく、数学オリンピックに挑戦するような若者の特性を通して見えてくるものを我々に語ってくれるのだ。そのことが本書に単なる著者個人の思い込みではない説得力を得させることに成功している。

現在、数学は公式やルールを覚えて当てはめるだけの教科になってしまっている。しかし、本当は自分で考え工夫すること、「イメージを喚起する能力」が大切だという。特に、図形の問題を頭の中で解こうとしたり、暗算したりすること。そして、他の問題との類似性を考えたり、関連する幾つものやり方を意識化して発想力を養うこと。学習したことを関連付け、構造化して記憶し、未知のものを自分の世界に取り込もうとする「位置づけの能力」を発達させることだという。

つまりは、結論として、「数感」を身に付ける努力をすることによって「美しい数学の世界に感動できる」ようになる、と著者は言う。随分端折った性急な結論となったが、なるほど、物事を数学的に考えるということはこういうことか、ということが本書を通じて良く分かる。どうもそれは、文部科学省が小中高校生のカリキュラムにしているものとはかなり違っているようでもある。我々が数学の授業を通して身に付けるべきものは一体何なのか示唆に富んだ一冊である。

因みに、本書の読みと並行して、学ぼう!算数』(岡部恒治・西村和雄編著、数研出版)『小学中学レベルの算数で理系思考を身に付ける』(藤森博明著・明日香出版社)を手元において目を通した。数や図形によって純粋に考える考える楽しさがここにはある。学校を離れて今は数学とは無縁の生活を送っている社会人たちも、こういう楽しみを再び持って見るのもいいかもしれない。

『数学トレーニング』(出口汪・水谷一 共著・小学館)では、人の話す言葉を「自然言語」といい、数学を「人工言語」といい、「人工言語を知らないものは世界を半分しか知らない」とまで言っている。

数学によって我々は何を学び何を身に付けるのか…大学生の学力低下、若者の数学・理科離れをいたずらに憂える前に、そして、生徒に和して軽々しく数学無用論を唱える前に、そこから考え直して見てはどうだろうか。