教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

戸塚ヨットスクールでの投身自殺(?)から思うこと

2009年10月21日 | 教育全般
戸塚ヨットスクールでの投身自殺(?)から思うこと

#「教育行政を見守る民間の第三者機関が必要では(2)?」の投稿を予定していたが、緊急の投稿内容を挿入します。

▼戸塚ヨットスクールで飛び降り自殺?
 19日午前、愛知県・美浜町にある戸塚ヨットスクールの寮の屋上から、18歳の女性が飛び降りて死亡した。警察は、自殺の可能性が高いとみて調べている。──というニュースを目にした時、痛ましさと同時に「またか──」という思いが脳裏を横切った

▼戸塚ヨットの衝撃的な事件
「戸塚ヨットスクールでの死亡事件」──それは有り得ないような衝撃的な事件であった。今でもネットに多数載っているので誰でも容易に検索が出来る。「同スクールは以前、体罰を伴う厳しいスパルタ式ヨット訓練で知られていた。1980~82年に訓練生が死亡するなどの事件が起き、同校長は傷害致死などの罪に問われ、懲役6年の実刑判決を受けた。同校長は2006年に刑期を終え、校長に復帰した。」(時事通信から)

▼今でも支援者の絶えない戸塚ヨット
一般の人たちが奇異に思うのは、あれほどの死者・行方不明者を出した非教育的・反教育的事件であったのに、判決は意外なほど量刑が軽かったこと、戸塚ヨットスクールの存続を認めたこと、それでも戸塚校長を支援する多くの親たちがいたこと、などである。今回の事件についても、「えっ、戸塚ヨットスクールって今でもあるの?」とか「問題はそういうスクールに入れれば死ぬかもしれないと知りながらそれを求める親たちがいたということだ」というような声が聞こえてくる。

▼「戸塚ヨットは必要」いう学校の教員
1992年(平成4年)8月14日付の『朝日新聞』では、精神障害の息子をもつ60歳の教員の次のような投書を紹介している。<戸塚ヨットスクールを頼った大半の人々も私どもと同様に感謝こそすれ、恨む気持ちは毛頭ないのではないかと思う。事故は残念だったが、国に私どもを救済する手だてがない限り戸塚ヨットのような存在は必要だ>これが学校現場に身を置く教員の声であるところが何とも複雑だ。

▼驚くべき体罰容認の教育観
ちなみに、「戸塚ヨットスクールを支援する会」というのがあり、その会長は現東京都知事の石原慎太郎氏である。そこには、「罰は子供を強くするため、進歩させるために行われます。 『叱るよりほめろ』では子供は強くなることができません。いかに多くの罰を受けたかが優しさを決めます。人のことを思いやる力をつけるには、体罰は最も有効です。」(「教育における体罰を考える」シンポジウム)とある。驚愕すべき教育観である。

▼日本の教育の歪みが噴出した事件
日本の教育はいつからこういうことになってしまったのか。ある意味では、日本の教育のおかしさが今回の戸塚ヨットスクールでの飛び降り自殺のような形でまたも噴出したのだとも言える。例えば、精神障害の問題一つとっても、それが生得的な病の場合もあれば後天的に生きる環境の中で作られる場合もある(教育がその元凶であることがしばしばある)。そのいずれにせよ学校現場から追放され、あたかも人間の出来損ないか、調教してしつけなければどうにもならない家畜や番犬・ペットのような扱いを受ける。先に見たように、教育現場で教職に携わる教員の親さえもそれを望んでいるのだ。有り得ない非人間的な異常さである。戸塚ヨットスクール事件はそうした教育問題の氷山の一角に過ぎない

▼日本の教育の実態を認識しよう
しかし、率直に言おう。こういうフリースクールは絶対にあってはならない。そして、こういうフリースクールを求める親や保護者もあってはならない。どう言い訳をしようが、こういうフリースクールの存在を認めるわけにはいかないのだ。子どもを主体とするフリースクール本来の趣旨とは大きく異なるだけでなく、全く逆の主張を臆面もなく掲げている団体である。しかし、現実にはそれをよしとする親や保護者がいるだけでなく、日本を代表する自治体の長までもがその後援会長を務めてさえもいる。これが日本の教育の置かれている現状である。日本の教育をどうこう言う前に、まずこういう現状をしかと見定めておく必要がある。あなたもそれを是認するのだろうか。

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教育を見守る民間の第三者機関が必要では?(1)

2009年10月16日 | 教育全般

▼政権交代で何が変わったのか
自民党主導から民主党主導へと政権が交代したが、そのことによって全てが大きく変わるわけではない。さすがに新政権はやることが違う、国民の声をよく反映していると見えるものがある一方、多くの国民の声を反映していないと映る政策もあれば、国民の声がよく分かっていないばかりか流れに逆行しているのではないかと思われる施策も散見される。民主党政権といえども利権から自由ではない。いや、そこに新たな利権構造さえ伺い知ることができそうである。

▼戦後の日本国憲法の果たした役割
今までは自民党政権であったが、衆議院で圧倒的多数を占めていた自民党とはいえ、たとえば国の根幹に関わる憲法を変えることはそんなに容易なことではない。今の日本国憲法がどういう経緯を経て誕生したか、それが戦後の民主主義や不戦による平和主義の推進にどのような力を発揮したか、国民の多くは忘れたわけではない。自民党持ち回りの安倍晋三首相が「戦後レジームからの脱却」というスローガンを掲げて参議院選挙で大敗を喫したが、戦前の日本がどんな社会であったかを国民はなお鮮明に記憶し理解している。それに教育分野では日教組による平和教育の保持が抵抗勢力として大きな役割を果たしてきた。

▼文部省が広めた『あたらしい憲法のはなし』
自分達はフリースクール(ぱいでぃあ)という学校外の、文科省指導外の教育活動を行なっているが、自民党政権の時は訳の分からない持ち回りの文部科学相が的外れな発言や指導を行なったことが多く、面従腹背かどうかは分からぬが文科省もそれに唯々諾々と従ってきた。たとえば、今は憲法を改変する勢力が体勢を占めるようになった文科省だが、日本国憲法が公布された翌年に、『あたらしい憲法のはなし』という小冊子を中学一年用の社会科の教科書として作成したことは周知の事実である(現在、童話屋から復刻本だ出されている)。文部科学省は政権与党に寄り添いながら、情勢によって風見鶏のように主義主張を変えてきたのである。

▼利権集団としての日教組
では、文科省に対する大きな抵抗勢力であった日教組という組織が、日本国憲法の重要な柱の一つである平和主義を掲げて平和教育を行い、本当に子どものための教育を推進してきたかというと、首肯できない教育活動が数々あったのである。それは必ずしも文科省に対抗するためとか文科省からの制約を受けていたからというような言い訳では済まされるような事柄ではない。彼ら日教組もまた一つの利権集団として振舞い、その利益にそぐわないものは頑として認めようとはして来なかったのである。

▼教職員が主役の学校教育現場
日本の学校教育を、すこし距離をおいたところから眺めてみるといい。日本の文科省は日教組等の教職員と対立して来た(特に各自治体の教委レベルで)とはいいながらそのほとんどは日本の教職員にとって都合の良い政策が取られている。押し合いへし合いはあるが全くの対立関係というわけではない。それに、子どものための教育と言いながら学校という組織ではその主人公は教師達であることは公然の事実であった。子ども達のための教育という文言はそのためのダシに使われていたとも言えそうだ。「ゆとり教育」は生徒のためにあったはずだが、いつの間にか教員のゆとり時間に化けてしまい換骨奪胎してしまったのもそのためである。(教員の厳しい環境とは言っても、学校を離れた子ども達を引き受けるフリースクールの過酷さの比ではない)

▼自分が主体の場を求める子ども達
しかし、このことは学校の内部にいれば、もしかしたら気付かないことかもしれない。教職員達は子ども達のために粉骨砕身、骨身を削って働いていると思っているかもしれない。ところが、私たちのようにフリースクールを営み、学校という空間の中で仲間の生徒や教師からいじめやしかとをはじめ様々な理不尽さに苦しみ、挙句の果てに学校を離れた(不登校・登校拒否と教育関係者は言う)子ども達と接していると、大部分の子ども達にとって学校という空間は教職員が子ども達の生殺与奪の権を握り、子ども主体の場などではなくなっていることがよく分かる。フリースクールに来てはじめて自分達が主体として行動できる場を得たことを実感している子どもの姿を目にするのである。

(続く)


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