教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

天皇が「ブルーギル」での謝罪発言

2007年11月11日 | 「大人のフリースクール」公開講座

陛下「外来魚繁殖心痛む」 琵琶湖畔で異例のお言葉 (共同通信)

と題し、共同通信に次のような記事が掲載されたようだ。 *********************************************************
 天皇、皇后両陛下は11日、大津市の琵琶湖畔で開かれた「第27回全国豊かな海づくり大会」の式典に出席された。天皇陛下は琵琶湖で問題となっている有害外来魚の繁殖に触れ「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの」とし「食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の言葉を述べた。
[ 2007年11月11日13時23分 ] *********************************************************

ブルーギルに関するこの事実は世間では「公然の秘密」であったが、天皇自らがこのことを公の場で口にするのはおそらく初めてのことではないだろうか。共同通信がこれを指して「異例のお言葉」と言うのはそういうことである。

では、このお言葉の何が「異例」であるのか。今までならば首相や政府の高官にとどまらず宮内庁においても国民に向けて直接謝罪の言葉を述べることはまずなかった(新聞が天皇の言葉を直接的にではなく間接的に紹介するという手法も続いていた。このテレビ主流の映像の時代においても)。「すまなかった」「わるかった」ということはなく、「遺憾に思う」とか言って適当に誤魔化すのが常套の手段であった。 しかし、今の世代は天皇が雲の上の存在であることを望んではいないし、謝罪すべきことを回避してうやむやな言葉でお茶を濁すようなやり方を快くは思っていない。どのような地位や立場にあろうと、事実として謝罪すべきことはきっちりと謝罪する、それが望ましいやり方である。

天皇一家は日本の皇族であるが、天皇・皇后にせよ英国流、クリスチャン系の教育を受けている。この点は裕仁天皇の場合とは明らかに違い、象徴天皇でありながら良くも悪くも日本的ナショナリズムに没することのない帝王学を身につけている。天皇一家の皇室外交については様々な意見があるが、もはやその言動において古き伝統の悪しき因習にまみれていないのは事実であろう。

国内にブルーギルを持ち込んだという今回のかなり率直な天皇の謝罪の発言は、今までの感覚からすれば「異例」のものかもしれないが、国民の大部分には極めて納得のいく謝罪表現ではないだろうか。今後、象徴天皇制が維持されるとするならば、それは法による後ろ盾のみならず、国民一人一人の支持があるかどうかが大きな意味を持つであろう。

それにしても、他の新聞社の腰の据わらない報道の姿勢はどうしたものか。現時点で、朝日新聞には天皇の行事に出席の記事はあるが、「故意に?」この報道を避けている。読売新聞と産経新聞にはそれに該当する記事が見当たらない。毎日新聞は短いけれどこのお言葉を紹介している。日本経済新聞はこの共同通信の記事をそのまま載せている。それぞれ天皇に対するスタンスの違いが見て取れる。これは一記者の記述によるものか、それともデスクによる取捨選択が行われた結果であろうか。なかなか興味深い。新聞・マスコミは決して客観的でなんかないことの好例であろう。 もしかすると新聞等のマスコミの感覚が一番ワンパターンであり、遅れているのかもしれない。


大江健三郎氏の『沖縄ノート』をめぐる記述について

2007年11月11日 | 「大人のフリースクール」公開講座

大江氏「軍の命令」 沖縄集団自決訴訟 原告側、証言に「憤り」(産経新聞) - goo ニュース

沖縄の集団自決が果たして軍の命令であったか否か…この訴訟は、島民の集団自決の行為を日本軍による強制によるものとした高校日本史の教科書の記述(来年度から使用される)を文科省の検定で修正させる根拠ともなったが、その後、教科書会社が削除された記述を自主的に復活させる訂正申請を出す動きとなっている。

 ということは、沖縄県をあげての書き変えの抗議運動が起きたこともあり、また福田首相も軍の命令を認めるような発言をしていることからも、もはや沖縄島民の全体的な感情からすれば集団自決を迫る「軍の命令があった」ということは自明のこととなったと言えるだろう。これが歴史的事実として定着することは間違いなかろう。

 ただ、そのことは個々の軍人の中に「死ぬな」「命を粗末にするな」「生き延びろ」というような命令を出した軍人がいたことを否定するものではない。その意味で、あたかも軍人のすべてがそうであったかのような記述には違和感を覚え、その人物の名誉回復のために訴訟を起こしたということは分からないではない。必要な視点でもあろう。しかし、それをもって軍の命令説を否定することは出来ない。その人たちが命令したしないにかかわらず、軍の命令とされた集団自決があったのは事実なのである

9日付の産経新聞の解説にも次のようにある。 *******************************************************
【用語解説】座間味、渡嘉敷両島の集団自決 

 沖縄戦開始直後の昭和20年3月下旬、座間味島と渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。死者は座間味島で約130人、渡嘉敷島で300人余とされるが、正確な人数はわかっていない。 *******************************************************

 「歴史」というのは「ヒストリー」の訳語であり、文字通り人類社会の物語のことである。ところが、それが物語であるが故に時の為政者に都合よく解釈されがちなのも否めない。しかし、それが学問的な研究の一環であるならば、そのような政治的な利害に惑わされない視点を持たなければならない。それでなければ研究そのものの墓穴を掘ることにもなってしまう。

 そろそろ時の政府も「事実は事実」と認める度量を持って欲しいものだ。もはやそういう姑息な手段をとる為政者は国民の信頼を得られなくなっているという事実を知るべきであろう。今後の為政者は国民を誤魔化そうとするのではなくて、国民に支持されるためには国民の信を得ることがもっとも必要な要件となるのではないだろうか。


秩父ミューズ・パークのもみじ狩り

2007年11月09日 | 「大人のフリースクール」公開講座
 地球温暖化のせいか、随分紅葉の時期が遅れているようだ。初冠雪の便りは聞くが紅葉の便りは今ひとつ迫力がない。

スクールでは毎年恒例の行事として、紅葉狩り遠足を行っている。昨年はライン下りと岩畳で有名な秩父の長瀞に行ったが宝登山の上でもまだ少し紅葉の盛りの時期には早かった。そこで今回は時期を一週間遅らせ、今年の3月まで秩父から片道2時間半をかけて毎日スクールに通い、今は高校生となっている秩父の生徒に現地の様子を尋ねたところ、ミューズ・パーク(375.0haというから東京ディズニーランドの何倍だろうか)の銀杏が見所ということで出かけた。

現地ではその生徒と母親が高校と会社経営の仕事を休んで待っていた。また、スクール開設当初に通ってきた一期生の生徒(もう成人している)も仕事を休んで、共にガイドさん役をかってでてくれた。

私はてっきりアミューズ[メント]・パークだと思っていたら、ある生徒の親の指摘でミューズ・パークだと知って、「全然意味が違うね!」とその生徒と大笑い。

ともかく、スクールの生徒たちを伴って朝8時にJRの改札口に集合しゴウ!一路秩父へと向かった。当初は秩父三峰口を想定していたが、現地の人たちの意見に従い(今年最後のロープウェイの運行はもう終わり、紅葉もさほど見事ではない)、秩父のミューズ・パークに変更したのは正解であった。

ミューズ・パークの一面は見事なコウヨウ(黄葉)で、どこまでも続く銀杏並木の黄葉がはらはらと散り行くさまは圧巻であった。もちろん楓や桜、ツツジ、蔦などの赤や臙脂色の紅葉も見事であり、黄葉に見事なアクセントを加えていた。よく芸能人が訪れるという音楽寺や23番札所などの伝統を感じさせる名所旧跡がある一方、ギリシャ風のミューズの噴水や野外音楽堂、森のコテージなど現代的な建造物が広大な長尾根の丘陵に広がり、芸術・文化施設を擁したミューズ・パーク全体が季節の花々や紅葉など、四季折々の自然を満喫できる施設となっていた。

教室を一歩出ると、生徒たちは教室だけの行動からは知ることの出来なかった様々な側面を見せてくれる。そしてそこには必ずハプニングも待っている。教科書やペーパーだけの学びでは人は決して「人」にはなれない。それは頭で理解するものではなく、身体を通して感覚・感性で感じ取るものであるからである。

だから、野外学習や遠足の後には必ず振り返り学習が欠かせない。そうやってヘマをやり、失敗を繰り返し、時には見知らぬ人に注意を受けながら(もっと子どもを注意する大人がいて欲しいな)彼らは成長していく。社会化していくのだ。これもスクールでの重要な学びのひとつである。 フレネ教育の創始者・セレスタン・フレネもそうやって子どもたちを自然や町に連れて行ったのである。

前原氏の対案批判は正しいか

2007年11月08日 | 「大人のフリースクール」公開講座

前原副代表、新テロ特措法案に対する民主案を批判(読売新聞) - goo ニュース

 前原氏の対案批判は正しいか

前原氏は 「与野党を超えて、国際貢献のあり方や武器使用基準、憲法解釈を議論し、(武器使用)基準を改正しないと、まともな国際貢献はできない」と指摘したとのこと。

だが、結局、彼の言う『国際貢献」とは「対米協力」のことではないのか。対案批判の根っこはすべてそこにある。彼の批判のすべてはそこから発している。 だが、今一番問題となっているのは、日本はこのまま正しかろうと間違っていようと、従来のように無批判的に対米追従をやっていていいのだろうか、つまりいい加減米国の言いなりの属国的な振る舞いはやめて、もっと国としての主体性を持つべきではないのか、という観点である。この点について、前原氏の考えは相変わらず対米追従型の思考であると言っていいだろう。

それに対して、「国連の枠組みで」とか「国連決議に基づいて」ということが言われるのは、不完全ではあるが日本が単なる対米追従型の路線を越えて国際貢献をする道を模索していることの表れである。国際社会の中で国連主導で物事を進めるということは世界のトップの立場にある米国にとってはあまり必要ないどころか、かえって自由な行動の妨げとさえなるという考え方である。むしろ自分たちの行動が世界の標準であって欲しいとさえ思っているだろう。だが、そのアメリカが誤謬を犯した時どうするか

今までの戦争はなべて勝者の論理が正義とされてきた。しかし、今後も勝者の論理がいつも正義であり、強国の論理がすべて正しいと言えるかどうか。アフガン戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカの世界戦略的の誤り、アメリカの世界認識の至らなさが招いた結果とも言えるのではないか。アメリカが誤った情報に基づいて起こした戦争ではなかったか。だとするならば、アメリカもまた国連の枠組みで行動することが求められる時代になったということである。

自民党の対立軸としての民主党の役割を放棄し、自民党と連立を組みすべてが対米追従の自民党の論理で国策が進むようになれば、国民の多くは民主党に明日の日本を託すような期待は持たなくなるだろう。福田氏との党首対談で小沢氏が持ち帰った大連立構想に民主党が「ノー」を突きつけたのはそういう意味もあったはずである。


前原氏の対案批判は正しいか

2007年11月08日 | 追加カテゴリー

前原副代表、新テロ特措法案に対する民主案を批判(読売新聞) - goo ニュース

 前原氏の対案批判は正しいか

民主党の前原 副代表は「与野党を超えて、国際貢献のあり方や武器使用基準、憲法解釈を議論し、(武器使用)基準を改正しないと、まともな国際貢献はできない」と指摘したとのこと。

だが、結局、彼の言う『国際貢献」とは「対米協力」のことではないのか。対案批判の根っこはすべてそこにある。彼の批判のすべてはそこから発している。 だが、今一番問題となっているのは、日本はこのまま正しかろうと間違っていようと、従来のように無批判的に対米追従をやっていていいのだろうか、つまりいい加減米国の言いなりの属国的な振る舞いはやめて、もっと国としての主体性を持つべきではないのか、という観点である。この点について、前原氏の考えは相変わらず対米追従型の思考であると言っていいだろう。

昨今、「国連の枠組みで」とか「国連決議に基づいて」ということが言われるようになったのは、不完全ではあるが日本が単なる対米追従型の路線を越えて国際貢献をする道を模索していることの表れであろう。国際社会の中で国連主導で物事を進めるということは世界のトップの立場にある米国にとってはあまり旨味がないどころか、かえって自由な行動の妨げとさえなる。アメリカはむしろ自分たちの行動が世界の標準であって欲しいとさえ思っている。だが、そのアメリカが誤謬を犯した時どうするか

今までの戦争はすべて勝者の論理が正義とされてきた。しかし、今後も勝者の論理がいつも正義であり、強国の論理がすべて正しいと言えるかどうか。アフガン戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカの世界戦略的の誤り、アメリカの世界認識の至らなさが招いた結果とも言えるのではないか。アメリカが誤った情報に基づいて起こした戦争ではなかったか。だとするならば、アメリカもまた国連の枠組みで行動することが求められる時代になったということである。

自民党の対立軸としての民主党の役割を放棄し、自民党と連立を組みすべてが対米追従の自民党の論理で国策が進むようになれば、国民の多くは民主党に明日の日本を託すような期待は持たなくなるだろう。福田氏との党首対談で小沢氏が持ち帰った大連立構想に民主党が「ノー」を突きつけたのはそういう意味もあったはずである。


小沢氏の辞意騒動から考えること

2007年11月07日 | 「大人のフリースクール」公開講座

小沢氏、辞意撤回へ 「ぜひ、もう一度がんばりたい」(朝日新聞) - goo ニュース

民主党の小沢党首が辞意を撤回したという。結局こうなるだろうとは見ていたが、何とも釈然としない。

▼ボス交は良くない

この頃、断交という交渉手段をほとんど見なくなったが、ではボス交がいいかというととんでもない。私が若い頃、未組織の労働者を集めて組合を結成したが、まだ未熟ということで労使交渉に馴れたボスに交渉を一任したということがあった。が、結果は我々の望みとはまったく違ったものになって、そのボスをみんなでつるし上げたということがあった。そのころから「ボス交は絶対良くない」というのが私の持論である。 今回福田氏と小沢氏が行ったのは、経営者と労組ではなく政党同士の会談・交渉であったが、いわゆるボス交であることに変わりはなかった。「何でそんなことを勝手に決めて持ち帰ったのか」と民主党は全員一致で色めき立ったということだが、だとすると小沢氏は自分の長年の持論だったかもしれないが民主党内の意見を無視して勝手なことをやったものである。党内のコンセンサスをとるどころか、彼は完全に党内からは浮いていたことになる

 ▼虚像と実像

政治というのは私から見てとても奇妙な世界である。かつて我々の世代では若い頃「共同幻想」という言葉が流行ったが(作家・吉本ばななの父君・吉本隆明氏が『共同幻想論』という書物で広めた)、政治家とは良くも悪くもこの共同幻想を身をもって体現する人のことである。つまりは実像としての私人の部分は限りなく小さく、逆に共同幻想としての公人の部分は限りなく大きい。だから、だから公人として世間に身をさらすことでとんでもない羽目になる人も中に入る。 そして今回、小沢氏の場合、この共同幻想=公人としての虚像の価値が著しく低下してしまったのではないだろうか。逆に今の民主党には何が何でも小沢氏は欠かせない人間なのだという印象を強めたという見方もあるかもしれないが、今回の件で国民から見た小沢氏に対する共同幻想としての虚像の価値は大きく揺らいでしまったという気がするのである。 だから、小沢氏が辞意を撤回して再び党首として精力的に振舞ったとしても、一度壊れた幻想は二度と元には戻らないだろう。結局は自民党を土俵際まで追い詰めながら、もう少しで土俵を割るかに見えた自民党は徳俵(とくだわら)にしっかりと足を据え、浮き足立っている民主党の押しをがっちりと受け止め、逆に攻勢に出る条件を整えたようにさえ見える。まったく馬鹿なことをしたものである。小沢氏にもう明日はなくなったかに見える。 あまつさえ、今の民主党には戦える力量に欠けているとまでのたもうたようだ。もはや小沢氏は民主党のトップを司る要件を欠いてしまった。自ら墓穴を掘っただけでなく民主党員、ひいては国民の希望さえ欺く結果となってしまったと言っていいかもしれない。過半数以上の国民はこんな連立を望んではいなかったのだから。彼は解体屋の異名を持つようだが、まさに彼は民主党を解体し、国民の希望を解体したのである。小沢氏らしいと言えば小沢氏らしいと言えるだろうか。どだい民主党を彼に任せっきりにしたのが間違っていたのだ。二大政党制は必要かもしれないが、それはアメリカ流の二大政党制とはかなり違うものなのではないのだろうか


『フリーダム・ライターズ』(DVD)を観て思ったこと

2007年11月04日 | 「大人のフリースクール」公開講座


DVDで『フリーダム・ライターズ』という映画を見た
(原作:FREEDOM WRITERS 2007年制作)

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あらすじ: 1994年、ロドニー・キング事件を機に起きたロス暴動直後のロサンゼルス郊外にある、ロングビーチのウィルソン高校に赴任してきた英語教師エリン(ヒラリー・スワンク)は、問題が多く、基本的な学習能力さえない生徒たちを担当することになる。しかも、生徒たちの間では人種間の対立が激化し、むなしい争いが繰り広げられていた。(ヤフーの映画案内から引用) *******************************************************

これは実話に基づく映画である。以前、ニューヨーク市の現役の最優秀教師の書いた『バカをつくる学校』という書物を紹介したがそれが痛烈な内部批判だとすれば、これは1994年、ロス暴動から2年後、ロス近郊の人種問題の坩堝の劣悪な環境の中にある夢も希望もない救いようのないようなカリフォルニア州ロングビーチの底辺高校・ウィルソン公立高校に新任教師として赴任してきた“実在の”英語(国語)教師の実践の物語である。中には「米国版金八先生」という評もあるようだが作り物のやらせではない。

麻薬・マフィア・警察・暴力・離婚・貧困・銃声・人種差別・戦争…この明日のない環境の中で生まれ育った子どもたちは最初から夢を持って生きることを放棄している。明日がなければ子どもたちは学ぶこともしない。ただ刹那的に行動するだけである。やがてこの女教師の自分の生活を投げ打っての努力で(普通あり得ない行動だが、事実だ)、子どもたちは学ぶこと・考えること・本を読むこと・自分を表現することを覚え、それぞれの苦しい現実から、一歩一歩自分の足で歩き出す。やがてホロコーストの歴史を知り、社会の問題にも目覚めていく。そしてまだ存命の『アンネの日記』のアンネを知る老婆を呼ぶために資金調達の活動を行い、学校に招いてその話を聞く…。すべてがアンビリーバボーな出来事だが、これは映画の出来事ではない。それを実践した人がいたということだ

ここには「学ぶことは変わることだ」というテーゼがある。「知ることは目覚めること」なのだ。目覚めた後どうなるか?個人の意識が変わったところで彼らを取り巻く現実まで変わるわけではない。過酷な現実は依然としてあり、むしろより耐え難い圧力となって彼ら一人一人に迫ってくるかもしれない。が、確実に彼らは変わったのであり、現実は変わらずにあるとしても、彼らの今後の現実への向き合い方が変わってくるのである。それはすべて一人の新任の英語の女教師がその高校にやってきたことから始まったことだ。

今、そんな教師が日本にどれだけいるのだろうか。どんな教育システムを取り入れようと、教育に携わる者が腐っていては話にならない。「有給がとれないから…」と挨拶に来ることを躊躇する担任教師、声さえ伝えてこない教師、「うちの生徒がお世話になってます」とか「そちらで元気にやってますか?」の言葉もなく「××学校の○○ですが、△△の出席日数を教えてください」と数値だけを知りたくて電話をかけてくる教師…。現実にはそんな教師ばかりである。「教育基本法」だの「人権教育」だのと言う前に、心得るべきことがあるのではないか?


町村官房長官の中教審&教師批判

2007年11月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「学校側、自分で考える習慣乏しい」教育問題で町村長官(朝日新聞) - goo ニュース

 「平成23年度から実施予定の次期学習指導要領について中央教育審議会の教育課程部会は30日、「審議のまとめ」を大筋で了承し、指導要領の概要が明らかになった。学力低下の指摘に対し、「ゆとり教育」の反省点に初めて触れ、「総合的な学習の時間」(総合学習)や中学の選択授業が削減される一方、国語、算数・数学など主要教科の授業時間は小学校で約10%、中学で約12%増える。」(MSN産経ニュースから)

まるで「あっち向いてほい」の教育論議だ。端的に言えば、中教審は「ゆとり教育や総合的学習の指導は間違っていました」と認め、撤回するということらしい。国家百年の大系ともいうべき教育方針について、教育行政のトップ機関がこうブレていては話にならない。果たして今回の見直しも信用していいものかどうか。その度に現場の教育が振り回されていては碌な教育が出来るはずはない。 まず押さえるべきは、そのような教育が現今の現象を作り出し、人を作り出してきたということである。そして今、その人たちが今までの教育は間違いでしたといって作り直すというわけである。その人たちの言動を本当にそのまま信用していいいのかということである

一体、教育のどこに問題があるのか。システムかそれともシステムを運用する人にあるのか。それさえも明確になっていない。先の改正前の教育基本法についても、果たしてその教育理念が教育現場で十分具現化されて上での判断なのか、それともそれを具現化させない要因がどこかにあって、その結果としてその教育理念が絵に描いた牡丹餅となってしまったのか…ということが明確にされないまま、理念として改定教育基本法が成立してしまった。奇妙なことに教育の世界では、国の将来を考えての施策といいながら、その実は後ろ向きの、結果としては亡国的なものとさえなるような動きがあまりにも多いように思えてならない。

果たして「ゆとり教育」は弊害ばかりもたらしたのだろうか。学際的な思考を育てようという総合的な学習の試みは間違っていたと言うのだろうか。この制度を上手く運用できなかった教師や保護者の側に問題はなかったのか。ある新聞は「責任の所在が不明確なままである」と述べているがその通りだろう。それをすべてシステムのせいにされては、どんな制度を設けようと同じであるということだ

今までは教育のシステムの不備に目を注ぎ、その改正を強く望んできた。だが、自分もまたその実践に関わる中でだんだんと「これはシステムだけのせいではない」という感じを強くしてきた。子どもたちの教育を真剣に考えている教育関係者は確かに多くいるが、それ以上にどうしようもない教員たちがそれに輪をかけただけ存在するのだ。

現場の教員たちに出来もしない課題を押し付け、それが出来なかったことを非難するのは簡単だが…今回の町村氏の発言にはそういう感じも持つし、それで施策者の責任が免罪されるわけではないが…彼の発言が必ずしも間違っていないということもまた事実なのである。ここにあるのは為政者に都合のいい目先の利益にばかりとらわれた愚民化教育ばかりを行ってきた当然の帰結と考えられなくもない

問題は「ゆとり教育」や「総合的学習」にあるのではない。教師の側にあるのだ。今思えば、「えっ! お前が教師やるの!?」というような連中が教員志望者には多かったなあ。これで誤解されて迷惑を被る教員もいることは確かだが。結局彼らは教育の指導権を取れていないのだから同じことだろう。

今までは政治も経済も教育も先進国に追いつき追い越せの発想でやって来たが、さて何とか先頭集団に追いつきはしたものの、それから先を指し示すものが何一つない。そういうものを為政者も教育現場の人間も持っていないのが現状の姿ではないだろうか。


中日落合博満の「オレ流」野球について

2007年11月02日 | 「大人のフリースクール」公開講座

中日53年ぶり日本一、MVPは中村紀(読売新聞) - goo ニュース

野球で中日ドラゴンズ日本シリーズを制した。おめでたい。私は必ずしもドラゴンズファンというわけではないが、オレ流の落合博満が好きである。その関係で野球では彼の所属するチームに一番関心を持って観ている。これは今に始まったことではなくて彼が現役のロッテの選手だったころからである。その前には国鉄スワローズの(巨人のではない)金田正一が好きであった。

 考えて見ると両者には共通したところがある。二人とも名門球団には所属せず、不利な条件の中で数々の記録を打ち立てた男たちであるということである。金田氏の場合は…私から見ると権威の傘下に入ったという印象があるが(反権力的で実は権威思考・志向であるという人はよくいる)…後に巨人に移るが、落合氏の場合にはその生き方が一貫しておりブレがない。一見、妻の尻にひかれている涙もろい軟弱男のようなイメージがあるが、彼の芯の強さは並みではない、そしてとてもクレバーだと私は読んでいる。

落合博光氏に関しては以前、「掲示板:みんなのしゃべり場・解放区」の <NLINK>http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/EndlessTalk103/index.cgi?mode=thv;thno=33;

</NLINK> において語っている。

今回、日本シリーズ第5戦においての落合監督の「オレ流」の采配が論議を呼んでいる。8回まで完全試合の投球を続けていた山井を代えて、9回には既定方針通り岩瀬をクローザーとして投入し、結果として二人で完全試合達成となった。それについての賛否の意見である。

今度日本代表監督としてオリンピックに臨む星野仙一氏は「自分なら変えない」という意見であった。楽天の野村勝也監督も「監督が10人いたら、まず10人とも代えないだろう」と答えたという。誰もやろうとしないことをやるのはやはり「オレ流」ならではであろう。

よく「優れた経営者はみんながノーということをやるものだ」というが、実際にどれだけの人間が実行しているか。「オレ流」はその優れた実践例と言えるだろう。

 「オレ流」はとかく組織論を優先する日本の社会の中ではツンボ桟敷に置かれたり冷や飯を食わされたり非主流派に追いやられるなど辛酸を舐めさせられることが多く、…古臭い論理が優先する中高年が主流の場では特にそうだ…「道」を説くスポーツの世界では特にそうだが(今回の落合氏や育成選手として年俸400万円で入団しMVPを獲得した中村紀洋選手も例外ではない)、教育の世界でも例外ではない。そういう中でも少しずつ「オレ流」が真価を発揮する場が与えられるようになってきたということだろうか。これがどれだけ許容される場が広がるか、それは日本の社会がどれだけ可能性を持っているかの試金石ではないだろうか。