教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

自民党は党としての耐用年数が過ぎたのかも…

2008年09月27日 | 教育全般

「大分の学力低い」中山国交相、誤解招くと発言撤回(読売新聞) - goo ニュース

麻生内閣が誕生した。早速その支持率がマスコミで発表されたが、福田内閣誕生時よりも低いのにはちょっとびっくりした。政治家の世襲問題が取り沙汰されているが、自民党の切り札、日本政界のサラブレッドの血筋の麻生氏も、「庶民感覚から程遠い」という理由で国民から敬遠されたのであろうか。今の日本の社会に高級感で勝負できるような余裕は庶民の間にはない。

その麻生氏が選んだ大臣の一人、中山成彬国土交通相が就任早々、またしても舌禍事件を起こした。まあ、大将の麻生さんが“舌禍事件大好き(?)”とでも言うように、失言(本音?)オンパレードの人だから、その閣僚がまず先鞭をつけても不思議はないが、自民党はどうしてこうも失言が好きなのだろう。松岡農相という自殺者まで出しているというのに。もしかすると、党としての耐用年数が来てしまったのかもしれない

中山氏の今回の、成田空港、単一民族、大分教育問題等に関する“感覚”のずれたこの発言はほとんど救いようがない。こういう人にこれからの日本の陣頭指揮の役割を担って欲しくない。このどれをとっても、当事者の単なるメンツやプライドを超えて認識そのものがずれている。たとえば、単一民族発言にしても、アメリカでは黒人大統領が誕生するかもしれない国際情勢の時代なのだ。学校の英語の教科書にも、アイヌ民族やその言語のことがグローバルな視点から学習されている。

国交省も“それは文科省で…”と管轄違いの大臣の発言に戸惑いを見せているが、中山氏は文相も経験している人である。彼が文相であった時、OECDのPISAの結果が発表され、日本の学力低下、国際社会での日本の学力の地盤低下が明らかになった。その時、文相の彼は、「もっと授業時間を増やそう」と時代錯誤のことを公然と口にしたものだった。

国際社会の中でトップクラスの教育熱を誇り、進学塾が乱立するほど栄えているこの日本で“何故学力低下なのか”“何故日本の子どもたちは努力する意欲を失っているのか”ということには何ら答えられなかった。また、“学校での拘束時間が短く、かつ塾産業なども存在しないフィンランドがいつもトップクラスの成績をあげているのは何故か”―そういうことにも答えられなかった。ただひたすら旧態依然の古い感覚で授業時数の延長を推し進めようとした

“これはダメだ!”―これが正直な感想だった。が、融通の利かない教育関係者は誰一人、それに異議を唱えたり、彼の言動に鈴をつけたりすることはなかった。この結果が、結局“総合学習の見直し”“ゆとり教育の否定”という、国際社会の進むべき道とは反対の方向に舵を切ることになった。その流れが今も続いている。このままでは日本の教育に未来はない

もし自民党が今後も日本をリードして行こうと思うならば、このような時代錯誤的な感覚のズレを修復しなくてはならない。それなくしてこの政党に未来はない。なぜならこのままでは日本という国は、後続の国々に次々と追い抜いていかれるであろうから。庶民は今、本能的にそれを見抜いている。

学校から合校へ」―かつてそういうタイトルの提言文を私どもの発行していた教育雑誌『ニコラ』で紹介したことがあった。1995年のことである。提言したのは経済同友会文科省の進める教育の動向に日本の国際社会での役割に危機感を抱いた経済同友会のブレーンが、自ら乗り出して提唱した教育改革の提言であった。そのイベントにも参加して話を聞いたものだ。その時も、日本丸の動向を憂える経団連の指導層の中には、自民党の動向を見て、“ダメだこりゃ”と思った人たちが少なからずいたように思われたものだった。


フィンランドの職業学校での銃乱射事件について

2008年09月26日 | 教育全般
フィンランドの職業訓練学校の高校生が銃を乱射し10名の生徒が死亡し、犯人は自殺したと報じられた。ユーチューブで高校襲撃の犯行予告もしていたようだ。容疑者の自宅アパートで、2002年から犯行を計画していたことを示すメモが発見され、犯行動機は「人々や人類に対する嫌悪」だったとも報道された。極端な過激思想に染まっていたらしい。確か少し前にも銃の乱射で8名ほどの生徒が死亡したというニュースがあったように思う。

フィンランドと言えば、真っ先に携帯電話ノキアに代表されるIT立国であると同時に、OECDのPISAのテストで絶えずトップランクを維持している教育立国としても想起される。そのため、教育のもっとも成功している国として各国からの視察が後を断たない。その教育立国で起きた乱射事件であるだけに、その衝撃は大きかろうと思われる。

これは何を物語っているか。単純に考えて、フィンランドの教育も子どもたちにとっては必ずしも理想的なものではなかったのかもしれない。世界各国の教育者にはその数値化された成果から羨望の眼差しで仰ぎ見られたかも知れないが、当の生徒たちにとっては歩く広告塔のような生きづらさを感じていたかもしれないのだ。

今後どのような報道がなされるか、興味深い。

“異形”の格闘技、日本相撲の終焉

2008年09月07日 | 「大人のフリースクール」公開講座

角界薬物騒動 2力士の強制捜査難しく(産経新聞) - goo ニュース

横綱朝青龍の仮病問題やヤクザ集団のように暴力行為で死者を出した日本相撲協会が、今度は大麻事件で揺れている。だが、協会トップの北の湖理事長が処分を口にするのをためらっている。世界反ドーピング機関公認の機関が出した分析結果を見ても。

一体、日本の相撲で受け継ぐべき“伝統”とは何か。相撲番付の上位を占める外国人力士を含め、力士たちは理解しているのだろうか。ファイティングポーズを取っちゃいけないとか、得意満面の表情をしてはいけないとか、型の遵守を力士に(特に横綱に)求めるが、その“精神”はどこにあるのか。それは今の社会でも価値あるものとして守らせなければならないものなのか。それともそれは、伝統の儀式の猿真似をすればパスするようなレベルのものなのか。

理事長の社会感覚のズレは今に始まったことではないが、内舘牧子氏ややくみつる氏の言動にしてもどこかおかしい。外国人にそんな国宝的・骨董品的なアンティークな“精神”を要求したって無理なのではないか?一事が万事で、日本相撲協会には日本の相撲を立て直すために外国人に門戸を開いたのは止むを得なかったとしても、そのための方策、たとえば外国人を日本式に教育して日本の“伝統”を体得させる、あるいは日本式の狭い“伝統”を捨て、外国のスポーツ競技のようなものに改変する──というような方策はとって来たのであろうか。外国の風土も文化も理解しない者たちがただ相撲の存続のために外国人をかき集めたように見えなくもないかくして今、“国技”としての相撲は、日本の相撲でも外国のスポーツでもない、異形の格闘技と化してしまったのだ

この麻薬事件をはじめ、今、相撲界の中で起きている様々な事件は、みなその“異形”の格闘技の範疇で起きているように見える。私自身は人為的に反自然的な異形のメタボ格闘人間を作り出して戦わせる相撲というプロ競技は、民間が行うプロレスのようなショーとしてはともかく“国技”として云々することはすでに終わっているのだと思っている。日本の相撲の終焉がここにある。その意味では、今相撲界では異端の立場にあるのかもしれない元貴乃花親方の言(秋場所中止も…)がもっとも真っ当なのかもしれない。


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“お話出て来い”にみる日本語の語りについて

2008年09月01日 | 子ども
▼幼少の子どもをお持ちのお母さんやお父さん、あるいは元子どもであったお母さんやお父さん、NHKの「お話出て来い」の番組をご存知だろうか。今もこの番組に耳を傾けているお母さんやお父さんはいらっしゃるだろうか。

▼今は朝の午前10時、NHK第二放送において、月曜から金曜までの毎日この「お話出て来い」の番組は流されている。対象は、年少・年中・年長の主に幼稚園の子どもたち。もしかすると、この番組を子どもたちに聞かせている幼稚園があるかもしれない。私が知らないだけで、結構多いのかも知れない。現状を知りたい気もする。

▼“どんどこどん、・・どんどこどんどこどんごこどん、・・でーてこい、でーてこい、でてこい・・お話でてこい、どんどこどんどこどんどこどん・・でてきた、でてきた、でてきたよ、ほーらでてきた・・ ”
太鼓の音に乗って、こんな言葉で番組は始まる。語りの佐野浅夫さんは今も現役である。氏の語りはもう4000回を超えるらしい。

▼NHKの“お話出て来い”のサイトの謳い文句には次のようにある。
「幼児の想像力を育てるのに、ラジオはもってこいのメディアです。ラジオに神経を集中させて聞くことは、子どもたちにとっては難しいところがあると思います。一方でその集中力は「人の話を聞く」力にもつながります。イメージをふくらませる音楽と効果音、そして一流の語りが子どもたちを物語の世界へ誘います。」
正にこの言葉の通りだと私も思う。

▼不思議なことに、私は自分もこの佐野浅夫氏の番組を聴いて育ったような気持ちがしている。本当だろうか。思い込みと記憶とがどこかでごっちゃになっているのかもしれない。この私もこの番組を聴いて育った一人である──そんな気が本当にするのだ。一体、この番組はいつから始まったのだろう?
まだ、自分で書物を読むには早すぎた時期、周りに子どもの私にじっくり本を読んで聞かせてくれるような環境がなかった時、私はこの番組のテーマソングが始まると、ウキウキとして「今日はどんなお話が聞けるか」と楽しみにしていたものだ、というように自分のことを感じているのだ。私は今でも小さな子どもになって佐野浅夫さんや香椎くに子さんの語りにじっと耳を傾けている自分を見出す。

▼今はアニメなどの映像、しかも動画が主流の時代であるけれども、当時はまだラジオが主流の時代であった。そして、ラジオそのものは地域社会の伝達の大事な手段となっていて、もちろん子どもにチャンネル権などはなかったが、どういうわけかこの番組がよくラジオから流れていて、私はそれを聴いていた──そんな気がしている。
あまり書物に恵まれなかった私は、この番組を通して、その言葉や音響から自由に想像の翼を羽ばたかせ、空想し考えることを学んだのだと今でも思っている

▼実際はどうなのだろうか。この番組は一体いつから始まったのだろうか。

▼今、私がなぜこんな番組を話題にするかというと、今も時々私はそれを聴いているからである。確かに、自分の子どもたちがまだ小さかった頃、「泣いた赤鬼」とか「島引き鬼」の語りの入ったLPレコード(佐野浅夫氏の吹き込みによる)などを買い求めて、当時からそれなりの評価はしていた。が、今はもっと別の角度から、この番組を評価している自分がいる。

▼少し前、斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」シリーズがブームになり、日本語を音声で理解することの大切さを再認識することにもなったが、それは飽くまでも大人の視点から見た、大人が理解できる立場から評価したものであった。だが、実際はそれでは遅すぎるのである。子どもの頃から、幼児の頃から、日本語に声を、語りを取り戻さなければならない。私らの場合には大人が聞いていた落語や浪曲の語りや口上などをそれなりに聴いて育っては来たけれど、今の子どもたちには学ばせるものがまるでない。それをこの「お話出て来い」は補ってくれるのではないか──と考えている。

▼そうすれば、日本語にも英語等に劣らない豊かな語りや話術があるのだということを発見することにもなるのではなかろうか。実際、私たちは日常、人と話をしたり、テレビで番組を観たりしても、それをどれだけ言葉として定着させているだろうか。
国語力の低下」などと巷では言われているが、今まで子どもたちにそういう話のメモの取り方や話のまとめ方、表現の仕方、弁舌のあり方などについてなんら方法論的な取り組みはしていない。「国語力の低下」などというのはその結果に過ぎない。今、アメリカの大統領の予備選を見ていて、候補者に限らず彼らの弁舌のさわやかさに圧倒されるような思いがしている。小さい頃からそういう教育を受けているかいないかの影響はとてつもなく大きい。

▼そういうことを含めて、子どもの表現力の向上、語りの復権のためにも、幼児だけでなく小学生や中学生くらいまでの子どもたちに是非この「お話出て来い」に耳を傾けることをお勧めしたい。

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