教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

SN等の双方向ネットワークと新しい民主主義と反原発と

2011年05月21日 | ソーシャル・ネットワーク・サービス
▼最近、ネットでの紹介もあり、黒澤明の映画「こんな夢を見た 夢-赤富士」忌野清志郎のコンサート「サマータイム・ブルース」をyoutubeで見た。共に反原発を主題としたもので、「原発は安全だと言ってたじゃないか」というのが共通のトーンでもある。共に、今日の日本の状態を予言していたと言っていいかも知れない。
 
▼両者ともどこかで見ていて記憶の片隅にはあったが、失念していた。今はもう二人共故人となられたが、生前はメジャーな存在であった。ところが、原発モノに関しては共にマスコミでメジャーな形で取り上げられることはなく、芸術家たちの酔狂として片付けられてきたものだ。
 無難な話題にはお笑いまで交えて面白おかしく報道するが、誰が操作しているのか、キナ臭いものには反論をするよりは知らぬ存ぜぬの「無視」を決め込む。そんなことはそもそもなかった事にする。マザー・テレサの言った通りだ。「無視」が一番の問題なのだ。

▼すでに中東の圧制者に対する大衆蜂起に関する報道でも明らかになったことだが、今回の、福島第一原発事故や東電に関する一連の報道姿勢を見ても、マスコミの権力性、恣意性、偏向性などをまざまざと見せつけられた気がする。twitterやfacebook、ustreamやyoutubeなど携帯端末やパソコンを駆使したソーシャル・ネットワークの動きとは真逆の情報発信姿勢だと思わざるを得ない。

▼自ら雑誌を発行していた(月刊教師雑誌『いきいきニコラ』)時から感じていたことだが、現場から記事を起こす時に、記者の思想性・専門性・教養性・生活感覚…など、様々なフィルターの質や度合いが試される。記事やネットに流される情報はその結果に過ぎない(そういう観点からすれば、言語化された情報の組み合わせを楽しんで論文をモノしている人間は随分おめでたい、とも言える)。ところが、ustreamやyoutubeは──今回の大地震や大津波の様子や原発建屋内の様子の映像のように──マスコミの加工前の映像をどんどん流してくれる。そこではマスコミの姑息な解釈は、参考程度ならいいが、基本的に邪魔である。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)でも、現場からの生の声がどんどん流れている

▼政府・利権の側からの風評被害啓発の報道が盛んである。大衆の扇動に惑わされるな、我々の報道を信じろとでも言うように。だが、そういう政府側の発表がどうにも信用ならない。大地震直後に福島第一原発の一号炉が大変なことになっていたことが今頃に発表される。民間主導で専門家による再測定をしたら東京・葛飾区の放射線量は政府発表の5倍…。風評被害の素を作っているのは政府・大本営発表そのものではないのか
 もうバカバカしくて誰も話題にしなくなったが、「直ちに人体に影響は…」と言いながら、その陰で関係家族や子どもは海外に行ってしまったとか…。政治家の子息が東電社員だとか…。ああ、これぞ風評被害で取り締まるべきことなのだろう。

▼今日の海外からの報道によると、アメリカの中東政策が大衆運動の高まりによって大きく変わりそうである。その武器となったのが、先にあげたインターネットや携帯端末による双方向通信である。かつての大本営発表や報道管制のように、もはや情報は権力者やマスコミの独占物ではない。民主主義の担い手である我々一人ひとりが情報の担い手であるべきだ
 「ユビキタス」という言葉があるように、いつでもどこでも誰とでも縦横に情報を発信しかつ受信できる、そういう時代に私たちは突入した。新しい民主主義の姿がそこにある。それをどう創り上げるか、それは我々一人ひとりに突き付けられた課題でもある。

▼最初は間違いもあろうし、誤報もあろう。もしかすると風評被害に乗ってしまうこともあるかもしれない。しかし、それを恐れて萎縮してしまってはいけない。間違ったら素直に謝ろう、そして、それを教訓として活かそう。そういう試行錯誤が今までにはないもっと開かれた民主主義を招来するはずだ。

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原子力発電所の事故から学ぶべきこと─裸の猿の火遊びを再考せよ

2011年05月12日 | 裸の猿
▼菅首相は10日、首相官邸で記者会見し、東京電力福島第一原発の事故を受けた今後のエネルギー政策について、「従来の計画を白紙に戻 して議論する」と述べ、原発への依存を減らす方針を表明した(読売新聞)――という。「これは良くない。問題だ」と痛切に感じたのであれば、改めるのを躊躇すべきではない。それもまた指導者に欠かせない資質だ。徒に利害の僕にばかりなるべきではなかろう。

彼や彼の属する政党(民主党)が日本に原発を持ち込んだ訳ではないのに、その対応の稚拙さからか、まるで真犯人か首謀者のようなマスコミの扱いである。本当はマスコミも原発の推進には一枚も二枚もかんでいるはずなのに、まるで自分達は無実の被害者の仲間であるかのような論調であるのは頂けない。

▼これだけ大多数の国民に被害と厄災をもたらせば、国内の政治経済や国際社会での立場にそれなりの遅れが出ようとも、利害や利権の立場に立ってのみ原発推進など唱えられるはずもない。浜岡原発停止要請もその線に沿ったものだろう。何よりも復旧・復興にこそエネルギーを注ぐべきだ。

▼思うに、我々人類はまだ原子力に手を染めるべきではないのかもしれない。我々人類が現在、原子力エネルギーで利用できているのは熱エネルギーとして使用する方式だけである。言うなれば火力発電の代替である。これは神の領域にあるエネルギーの使い方としてはほんの初級クラスのものでしかないのではないか。原子力発電所の暴走で右往左往する姿は、原子力の火遊びをして飛んでもないことになって慌てふためいている裸の猿にでも例えられるべきもの、人間の燃やした焚き火で火遊びをして自分の毛皮に火がついてびっくりしているチンパンジーにでも例えられるようなものではないのか。

やがては科学も技能も人類の心性もさらに進歩した場合には、あるいは制御できるようになるのかもしれない。しかし、我々人類はまだそれを使いこなせる域には達していないように思われる。我々は神ではない、限界ある生を生きる人間なのだということを忘れるべきではあるまい。今一度、自然の力の前で謙虚にあるべき時である。



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親や教師は子どもの命の加害者になるな!文科省の言いなりになるな!

2011年05月06日 | 福島原発事故

▼「保育園と小中学校の校庭、独自に放射線量測定 那須町」─これは5月3日の新聞の記事の見出しです。
 「栃木県那須町の8保育園と17小中学校の校庭で2日、放射線量の測定が始まった」ことが書かれています。調査の結果、町長は「国の基準値よりかなり低いので、平常通りの活動で支障がないと考える」とのコメントを発表したようです。

▼「良かった!これで一安心。子どもたちにも喜んで伝えられる」。調査に加わった町の職員や教職員の中には、もしかすると自身の親族等にも大変な事態に巻き込まれた方があったかもしれません。少しでも子どもたちのためになりたい─そういう心がよく感じられます。本当にご苦労様、頭が下がります。
 しかし、同時になぜかとても情けない気持ちにもさせられます。教職員の複雑な心境を思うからでしょうか。

▼文科省は4月19日、校庭利用の放射線被曝限度を年間20ミリ・シーベルトと決めました。それに基づき、福島県やその近県では同様の調査が行われているようです。しかし、文科省が示した「学校の校舎・校庭等の放射線安全基準」なるものが、とてもずさんであることが明らかになっています。それに原子力安全委員会も文部科学省の言い分を「そのような話は聞いていない」と否定する始末。確か「原子力安全委員会」の助言をえて決定したと文科省は説明していたはずです。

▼測定は小学生は50センチで、中学生は1メートルの高さで行うようですが、中学生の場合には、3.8ではなく4.1マイクロシーベルト/時でもOKとか。なんというアバウトさ。根拠にまるで説得力がありません。そもそもこの基準は大人に適用される基準であって子どものためのものではないといいます。さらに、この基準はせいぜい2~3週間の非常事態時の基準であり、大人でも避難しなければならない「計画的避難区域」の基準線量、つまりは「これ以上は絶対に被ばくしてはいけない」上限値と示すものだというのです。

▼残念ながら、私は原子力関連のことには全くの素人の人間です。専門家の意見を聞くしかありません。しかし、少なくとも教育の分野に関しては誰よりも深い関心を持っているつもりです。今も学校を離れた不登校の子どもたちと日々接しています。そういう立場だからこそよく見えるというものもあります。
 例えば、現在の日本の学校教育には不登校を生み出す様々な要素がありますが、今はその問題は論じません。ただし、学校の教職員たちは今新たに、不登校を生み出した学校運営以上に取り返しのつかない愚を犯そうとしているのではないかと思えてなりません。

▼先に内閣官房参与を辞任された小佐古東大大学院教授が「(官邸関係者から)老婆心ながら、守秘義務があると言われた」と半ば脅された形で辞任の説明会を中止したと言われています。
 同じく、文科省が指示を出したとなれば学校の教職員はは数々の疑問を持ち、出来れば異議を表明したい、反対行動を取りたいと思いながらも、教育公務員として上意下達で降りてくる指示命令に唯々諾々と従うだけになっているということもあるのではないでしょうか。

▼それがあの新聞で報道された校庭の土砂を測定する職員の姿だとすれば、あまりにも惨めです。子どもたちや生徒たちのためと言いながら、その行為は学業半ばの学生たちを戦場に送り出し、海の藻屑と消えさせた行為と基本的に代わりはないように思えます。
 教育は一過性のその場限りの行為ではありません。文科省の指示に盲目的に従っていて、果たして子どもたちを救えるのでしょうか。確かに「直ちに」被害は見えないかもしれません。でも、将来様々な障害を持った人たちが大量に排出されるかもしれません。
 もしその責任の一端が今の教職員たちの行動如何にかかっているとしたら?もしかしたら今、自分は教員として子どもたちを救うのではなく、逆に生徒たちの命の加害者になろうとしているのではないか。そこを明確にする必要があるのではないでしょうか。

▼素人が見ても、放射能の測定の仕方がどうにもインチキ臭いのです。小中学の背丈による測定の違いもその一つです。でも、それ以上におかしいことがあります。子どもたちは校庭で遊び、走り、転げまわるのです。そこに時間の限り立ち尽くしているのではないのです。そう考えるなら、高さによる測定がマヤカシであるのは一目瞭然です。それに、しっかりと測定するつもりならば地面で計らなければならないということです。足はいつも地面についているのですから。
 その意味では、原子力安全委員会(何が安全なの?)の班目委員長が「放射線量の測定だけでなく、土壌や空気中の放射性物質の濃度も測定し、対策を示すよう」文科省に求めたのは当然といえば当然のことなのです。

▼お父さん・お母さん、そして教職員の方々、子どもたちの命を守ってやれるのは側にいるあなた方しかいないのです。子どもたちはあなた方に全幅の信頼を置いているのです。それを裏切るところにどんな子育てや教育があるというのでしょうか?行動するのは今しかないのです。被曝した子どもを前に後でいくら悔やんでも取り返しはつかないのです。

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