教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

教師がモンスターペアレンツを訴えるということ

2011年01月19日 | 教育全般

▼保護者の間では「困った先生」とか「教員の当たり外れ」などという会話が公然と語られても、他方で、たとえばPTAの役員の間などでは「子どもがお世話になっている間は先生の心証を良くする」のが当たり前ともされていた。教員や学校に異議をとなえることは愚かな親のやることであり、タブー視されてきたのだ。しかし、そういう中でも数々の教員・学校批判は底流としてあった。
 一方、学校側からすれば保護者には様々なタイプがあり、なかなか一律には行かないというジレンマがあっただろう。学校に児童生徒としてやってくる子どもたちの背後にはおそらく学校を終えてすぐ教員になった人にはその一部しか想像できない多種多様な職業や生き方をする親たちの生態があった。教員たちから見たそういう訳のわからなさも手伝ってか、いつごろからか「モンスターペアレンツ」という言い方が学校教育の世界で使われだすようになった

 
▼それは最初、学校教師の正当性や優位性を示す観点から発せられた言葉であったのかも知れない。確かに一方ではそういうクレーマーとしての親の存在を炙り出すのにそれなりの意味合いはあっただろう。しかし、他方では学校教員の対処能力の乏しさ、狭量さをさらけ出す結果にもなったということは否めない。そのように命名したところで、問題がより鮮明に浮き彫りにこそなれ、それで問題が何一つ解決する訳ではないのだ。ただ、教員たちのどうしようもない悲鳴を聞くだけのことで、せんかたない駄々っ子の愚痴を耳にするのに似ていた。

▼そこに、今回、驚くべき事態の展開が起こった。埼玉県行田市の小学校の女性教諭が、自分のクラスの女生徒(9)の両親をモンスターペアレンツとして、不眠症の慰謝料500万円の補償を求める訴訟を起こしたというのである。確かに学校内での子どものトラブルをきっかけにその親が取った行動は電話での話、連絡帳への書き込み、文科省や市教委への通報など、常軌を逸したような行動に見える(一方からだけの物の見方だが)。だから、当該の女性教諭へのある種の同情もわく。が、生徒の親一人にも余裕を持って接することができず、自分の振る舞いにも問題はなかったかと振り返る器量もないキャパの狭さもまた浮き彫りだ(それがあったら、バカな訴訟に発展させることもなかったろうに)。

▼ところが、「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」と、小学校側が2010年10月、市教委に対しこんな校長名の文書を提出したというからますます驚きだ。そもそも、この校長に保護者への対処能力に欠けるところがあったからこんな事態になったのではないか…というのが、ますますはっきりしてしまった。これは小学生が学ぶ学校の教育者が取る措置ではまったくない。
 これに対して、市教委が「あくまで担任と保護者の間の訴訟と認識している」とコメントしたのは正しい。本来、これは子どもの教育の問題であって、大人の利害やメンツのレベルの問題ではない。そして、抑えておくべきことは、「親は子ども如何によってはジャにも蛇にもなる」ということである。

▼訴訟で争うということになると、子どもに端を発した教育の問題でありながら、それはもはや子どもの問題ではなくなる。子どもの頭越しに物事は展開し、子どもの教育問題はそのダシに過ぎなくなるだろう。教師はそこまで考えて訴訟を起こしたのか。教諭を支持するという校長は、そこまで考えて訴訟を後押しするというのか。
 はっきり言って、こういう問題を教育の問題を扱うには似つかわしくない訴訟という手段に打って出たという時点で、子どものための教育は死んだのであり、訴えた教師もまたその職を捨てたのだと言っていいだろう。何よりも子どもの声に耳を傾けることを忘れた「狂育」がそこにある。
 

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スマートフォン=現代の十徳ナイフ

2011年01月10日 | 社会
▼かつてアウトドアが好きな若者たちの間で、野山で使用する便利な道具として十徳ナイフというものがもてはやされたことがある。缶切り、ナイフ、栓抜き、コルク抜き、ドライバー、ヤスリ、スプーン、フォーク、爪楊枝、ハサミ…などが揃っていた。秋葉原事件のように現代の危ない若者が秘められた自分を慰撫する道具のように眺めたり、酔っぱらいのオヤジを狩るためのサバイバルナイフとは全く趣が違う。両者は似ても似つかぬ代物である。聞くところでは、この十徳ナイフはスイスのアーミーナイフに通じ、さらには1800年代のローマ帝国時代にまで遡るらしい。何せ野性志向(?)の当時の若者にとってそれはとても格好よく、現代という荒野を生き抜くための魅力的なサバイバルアイテムであった。

▼では、現代の我々がこの厳しい現実社会を生き抜くために身に付けるべきサバイバルアイテムは何かと考えたとき、今まではパソコン、特にノートパソコンがその座を占めていたように見える。若者達がこのアイテムを手にした時、彼らはそれが出来ない上司を小馬鹿にさえしたのである。IBMやNECのMSDOSパソコンが世に出たとき、たとえば日本でも「24ドットの漢字が打てる!」とか言って感動をもって迎えられたものである。しかし、そのパソコンがどれほどのものか、実のところまだよく分かっていなかった。このようなIT社会がすぐに来るとは誰も思ってはいなかったのではないか。だから、若い連中がパソコンをいじくり回していると(実際、まだとろかった)、上司たちはいまいましげに「パソコンで遊んでやがる!」とまで悪態をついたものだ。
だが、パソコンは単なる玩具や小道具ではなかった。次代を担う若者達がこの社会を生き抜くための新しいサバイバルの武器となったのである。それから約30年が過ぎ、今やパソコンをはじめコンピュータのない生活はおよそ考えられなくなった。

▼ところが、ここ数年、すっかり様相が変わってきた。パソコンに代わり携帯電話がその座を奪ったかのように見えたのも束の間(日本で独自の進化発展を遂げた携帯電話は「ガラパゴス」と称され、国際規格からは大きく外れたものになった趣はあるが、日本国民の大多数が所持するものとなり、特にビジネスの世界では不可欠のアイテムとなった)、そこに海外から国際規格のOS純正品として侵入してきたのがiphoneやandroidなどというスマートフォン、小型コンピュータに電話機能がドッキンづされたような高性能携帯端末であった。

▼幸か不幸か私はパソコンとは黎明期からの付き合いで、ワープロ専用機→MSDOSパソコン、window機というように、その道の人間ではなかったが、パソコンの歴史と共に歩んできた一人である。そしてその余りの変化の速さに正直驚いている。パソコンの進化そのものに違和感はないが、これは人の成長のスピードを遥かに超えているのではないかとも感じてきた。IT機器の進化に人間の方がついて行けなくなっているのだ。
また、日本の若者達がまるで曲芸のように掌で弄ぶテンキー操作の日本の携帯電話には少なからぬ違和感を持っていた。qwertyキーボードを操るのならまだしも、あんな玩具でどんな文章が打てると言うんだという反感さえどこかにあった。一時「携帯小説」などというものが流行ったが、ああいう器具から生まれ出る文章など高が知れたものと思っていた。だから、モバイル機器には関心があったが、日本のガラケー(フィーチャーフォン?)には電話機能以外には興味はなかった。

▼ところが、そういう私が、とうとう昨年の暮近くにアンドロイドのスマートフォンを手に入れた。本来剥き出しのガラス画面は好きではないが、薄さと軽さを追求していくからにはやむを得ない選択かもしれない。その分、ガラス面を保護するグッズが必要だろう。
スマートフォンはまずiPhoneから始まったが、マイクロソフトによる囲われや桎梏を嫌ったアップルが今度は自らが覇権主義者となって逆の唯我独尊に陥る姿を見て、私自身は買い求める気にはならなかった。
以前から「ユビキタス」的な考え方(いつでも・どこでも・だれでも)があり、このスマートフォンの出現もその延長線にあると思っている。そして、その方向を鮮明に示しているのがアンドロイドOSの動向のように見える。

▼今後,人間の社会がどういう方向にどう動いていくのか、利害に絡む話そのものはだんだんどうでも良くなりつつあるが、とても興味深い。
本来、人間社会の建設はもともと弱い存在であった人類が自然界から防御するシステムとして考え出されたものなのだろうが、人間の社会もまた第二の荒野に似た様相を呈している。人間の作ったシステムが逆に人間を抑圧することさえ珍しくない。
今、私たちは21世紀という人間荒野の真っ只中にいる。ローマ帝国の時代に既に十徳ナイフに類するナイフがあったように、かの弁慶が七つ道具を持っていた(?)ように、現代の我々もこの吹き荒ぶ人間荒野を生き抜くために、現代の十徳ナイフが必要とされているのかもしれない。そして、その一つが今スマートフォンと呼ばれているものなのではないか。人は今後、その文明の利器を用いてどんな未来を切り開いていくのだろうか。希望でもあり不安でもある。

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