教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「記憶する」学習から「考える」学習へ

2008年07月28日 | 教育行政

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「記憶する」学習から「考える」学習へ

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政府の教育再生懇談会は2月26日、小中高校の教科書のページ数を倍増する素案を明らかにした。「自学自習にも適した教科書」にするのだという。

「ようやく」と言うか「とうとう」と言うか、遅きに失した感がある。「学力低
下」の批判を招いた「ゆとり教育」からの脱却ということだろうか。でも、今回
の方針はともかく、何かやっぱり教育の捉え方が違うなあという感じがしないでもない。

欧米と比べたときの日本の教科書の薄さの問題は今に始まったことではない。でも、それでも良しとされてきたのは、日本の教科書は授業の中で教師の上からの指導によって覚えさせることを主眼としてきたからである。ところが、ここにきてOECDのPISAのテストなどによってはっきりと日本の教育のダメさ加減を厭というほど見せつけられた。

彼らに言わせれば、その元凶は「ゆとり教育」の名の下に減らされた教科書の薄さにあるということなのだろう。そこで、主要科目の教科書の内容を豊富にして、子どもたちの自学自習や発展的な学習にまで柔軟に対応できるものにしようということらしい。

読売新聞の解説には“脱「ゆとり」具体化”とあり、その方向ばかりが強調されているが、私はむしろ「記憶するための学習」から「考えるための学習」がようやく始まるということで今回の教育再生懇の素案を評価したいと思う。日本の教育で最大の問題は「記憶する」こと「覚える」ことには長けていても、「考えることをしない子どもたち」を多量に作り出してきたことなのだから。


東川口中3女子父親刺殺事件から(3)…軽すぎる「命の感覚」

2008年07月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

長女、時折趣味の話も 川口・父殺害、動機は語らず(朝日新聞) - goo ニュース

東川口中3女子父親刺殺事件から(3)…軽すぎる「命の感覚」

東川口中3女子父親刺殺事件は事件のあった19日からもう1週間以上経つが、当初から私が予想した通り、未だに動機らしい動機は見つかっていないようだ。さもありなん、という気がする。というのは、今回の事件の特徴は教育の常識的な視点からは見えて来ない、つまりそういう範疇では捉えきれない領域で起こった事件だからである。

長女を逮捕直後に「お父さんが家族を殺す夢を見た」とか、「目覚めた瞬間に父親を刺そうと思い付いた」とかいう言葉から「ねぼけ説」より専門的には「覚醒障害」によって引き起こされたとか、牽強付会(こじつけ)に近い説明まで含めて、一応尤もらしい解説にも思えるが、どの説も中途半端、帯に短し…の感が否めない。

受験のプレッシャーだとか、無断で学校を休んだのを父親に咎められたとか、他にもいろいろ動機になりそうなものは指摘することはできるが、どれも彼女に父親刺殺を行わしめた決定的な動機というものとは決め難い。正気に戻ってから長女は「大変なことをしてしまった」とも語っているようだ。その意味では「ねぼけ説」が一番近いと言えるかも知れないこれは哲学用語が日本に翻訳されて入ってくるとやたら難解な非日常的な用語になってしまうのと似ていて、精神・心理の専門的な分野の研究用語を当てはめて解説してしまうと、どうしても薙刀で刺身を料理するようなものになってしまう。ことはそんなに複雑怪奇なものではないのかもしれない。

いや、初めからそんなものはないのかもしれない。日常的な感覚で考えれば、極めて単純な事件なのかもしれない。たとえば、この犯人とされる長女は中学3年生になるまでどんな成育をして来たのだろう?もっと踏み込んで言えば、どんな死生観や倫理観をもって生きてきたのだろうか。そういう経験の世界が彼女の成育の過程であっただろうか。たとえば、ゴキブリと人間の命の違いは何?たとえば、若者が軽々しく他人に“死ね!”と口走るとき自分の生命をどう意識しているか、他の命と自分の命の違いや重さは…?

そこから見えてくるのは、自分の命の軽さであり人の命の軽さである。子どもの教育問題に関わり、ついでフリースクールの運営に従事するようになってから、絶えず気になっていたのは今の日本の学校教育、そして学校の教員たちにおけるどうしようもない「命の軽さ」の感覚であった。今までも、昆虫や蛙などの解剖にとどまらず、教員によるウサギの生き埋め事件、学校で飼っていた鶏や豚の・料理事件など、動物の生命に関わる問題を取り上げてきたこともある。電池で昆虫が動くと本気で思っている子どもたちが輩出する現在、学校自体が生き物の生命をどう扱っていいか分かっていない。いじめ、不登校、非行…など、学校を舞台とする事件に通底するものは実はこの問題なのだと私は思っている。

これは全くの想像なのだが、その犯人と目される長女は、ある程度の学力はあったのかも知れないが(これも推測だが、この学校は超難関の一流受験校ではない)、こと生き物の生命に関しては貧しい想像力しか持ち合わせていなかったように見える。もしかすると、「一度壊しても、リセットすれば元に戻る」くらいのレベルで命を考えていなかったのではないか。これはこの事件の直前にあった中学生のバスジャック事件にも言えるし、秋葉原での連続殺傷事件にも、この事件の後に起こった33歳の男性の殺傷事件にも言える。まさに「誰でもよかった」のである。この父親殺傷事件にしてもそうだろう。彼女にしてみれば、その父親はたまたま自分と同居する人間であったのであり、自分もまたたまたまその親の下に生れ落ちたに過ぎないのだ。

だから、気に食わなければリセットすればよかった。リセットした後にどうなるか?そういう想像力は持ち合わせてはいない。思考もまたそこでリセットしている。だが、現実には、それは彼ら彼女らが考えるような「おしまい」「やり直し」ではなく、架空のものではない重たい現実がそこから始まるのである今の子どもたちにはこの現実感覚がとてつもなく軽いのである。


東川口中3女子父親刺殺事件から(2)

2008年07月21日 | 教育全般

長女、父の「勉強しろ」に反感か 川口・刺殺事件(朝日新聞) - goo ニュース

東川口中3女子父親刺殺事件から(2)

さて、先に述べたことをどうすれば理解してもらえるだろうか。その説明がなかなか難しい、ということ自体がこういう事件の起きる要因を説明する難しさに繋がっている。それは世間の常識レベルで語れば理解が行くということには行きそうもないからである。

たとえば、私どものやっている「フリースクール」という活動、世間一般の人で、もっと狭く考えて教育関係者の中で、もっと狭く考えて、現場の学校教員の中でさえ、この活動を正確に理解している人がどれだけいるか。近隣の学校教員の中でも(その学校から実際に私のところに生徒が来ている)「フリースクールになんか行ったらまともな学生や、社会人になれないよ」というような無知・蒙昧の言を平気で生徒やその保護者にしている。現実には、今春3月このフリースクールを飛び立った生徒の中にはいわゆるサポート校のような高校に行く子もいれば学内ではトップクラスの学力のある生徒で実績のある進学校に進んだ生徒もいるし、OB生の中には東京や京都などの指折りの有名大学(本当はこういう言い方は好きではない)でばりばり活動したり研究したりしている学生たちがいるのにである。

敢えて中高の教員にもならず、教育事業としては助成金の対象にもならず採算の合わないフリースクールに身を投じ、進学塾のように学校教育の補完ではなく敢えて子どもの視点に立った独自の教育方針を貫こうとする…教員等の教育行政の側に身を置く人たち(おそらく“教育は学校の中で行うもの”という観念から自由になれない)にとってはフリースクール活動という行為自体が理解を超えた範疇に属するのではないかと思う。

しかし、そういうような教育の視点がまったく欠落している教育の常識的な考え方からは、今回の事件はほとんど見えて来ないのではないか。なぜなら、そこにこそ「起きるにはやはり訳があるのである」と語った、「その訳」に繋がるものがあるからである。

話はまた逸れてしまうが、川口市で中3女子による父親刺殺の事件があった日、「フリースクール・ぱいでぃあ」ではちょうど「教育広場:親の会・オフ会」という勉強会&相談会&討論会」を行っていた。その場で直接その話題は出なかったが、個々の子どもたちに何が必要か、どう考えるべきか、フリースクールでは何を行い、実際に子どもたちがどう変容したか…そのようなことを話し合っていた。おそらく学校の中ではほとんど話題にもならないようなことが話し合われ学びあったとも言えるかもしれない。そして、それは決して今回の事件とは無縁の話題ではなかったと思っている。

今、生徒の事件だけでなく、校長や教頭、一般教員だけでなく教育委員長まで絡んだ職員採用の汚職事件が大分県だけでなく全国の教育行政の問題にまで広がりを見せているが、今、日本のどこにまともな教育はあるのだろうか、と言いたいほどになっている。その教育の崩壊の渦中から今回の女生徒による父親刺殺事件は起きたと考えてほぼ間違いではあるまい。

不登校に見られる子どもたちの反乱、学級崩壊、学びからの逃走、学力低下、為政者の都合でころころ変わる数年先も見通せない日本の教育、教育の現状とは裏腹の教育スローガン、人を育てられない日本の教育、ひたすらロボットのように使われる人間を製造する教育工場としての学校、国際化の中で国際的視野や感覚を欠いた日本の教育、そして極めつけは学校教育に従ってひたすら言われたとおり勉強していれば視野狭窄の自ら考えないバカを作り出す日本の教育がそこにある。

こんなことを平気で言えるのも、私が教育行政の一員でもなく、学校教育に従事する教員でもなく、そういうシガラミからはまったくフリーなフリースクールの人間だからである。教育行政による金銭のヒモは一切ついておらず、保護者たちの全くの手弁当によって営まれている教育機関であるからである。この観点から見れば、日本の教育の様々な不思議は部外者には全く見当のつかないギルドの世界の出来事のように見えてくる。

今回の川口市の私立中3女子による父親刺殺事件は言葉ではとても形容できない悲惨な事件である。精神状態がどのようなものであったとしても、決して容認できる事件ではない。それによって一瞬にして彼女は自分に関係する全てを、そして彼女自身に繋がる全てを刺し貫き打ち砕いたのである。未成年者とはいえそれに一切の弁解の余地はない。だが、誰がそのような子どもを作り出したのか!? それこそが教育の責任である。

聞くところでは彼女は毎日朗らかに学校に行っていたそうで、100に1の可能性もないが、もしその子が事前に精神の苦痛を訴えて私どものようなフリースクールの門を叩いていたなら、おそらくその子へ何らかの手を差し伸べる方法はあったであろうし、このような事件を起こして全てを水泡に帰することもなくて済んだであろうと思われてならない。私たちはそういう危機的な状況の子どもたちを何人も扱い、救ってきた。そして事件に至らせるようにした子は誰一人いない。

だが、彼女の通っていた学校の関係者は誰一人彼女の異変に気付いていない。生徒一人ひとりにそのようなセンサーを働かせたり、見えない信号を受け止めるアンテナを備えたような教師が誰一人いなかったということではないのか。生徒たちも最初からそういう信号を発信することを諦めていたということもあり得るが。それでも見抜くというのがプロの仕事ではないのか。

ひとことで言えば、今回の事件は、「学校という教育工場が作り出した“利口” “いい子”という“バカ”」が引き起こした事件である。今、日本の中でこういう“バカ”が大量に作り出されている。教員養成や採用のあり方と共に、日本の教育の在り方を根本から考え直さなければ(ということは実際にやらなければということ)というところに来ているということだ。PHP研究所の亀田氏が“「教育改革」をすべてやめよ”という主張をされているようだが、私も基本的にこの方の言に賛成である。
(※“教育工場”という用語は鎌田慧氏の造語である)

(続く)


川口市中3少女父親刺殺事件から

2008年07月20日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「目覚めた時思い付いた」 埼玉、父親刺殺事件(共同通信) - goo ニュース

埼玉県の東川口のマンション住まいの家庭で、さいたま市の中高一貫の私立中学校に通う中学3年生の女子が、深夜3時頃、自宅の台所の文化包丁で(出刃包丁?)ベッドに寝ていた父親を殺害したとして逮捕された。

前日夕方の食事には父親の作ったカレーで一家4人の団欒の食事をしたということで、事件に至るようなトラブルはなかったという。「なぜ!?」「 どうして!?」というのがその家族や事件を起こした本人を知る人の反応らしい。およそこんな事件など起こすなど考えられない「いい子」であったし「いい家庭」であったという。

報道では本人が未成年者でもあり報道被害も考えて学校名は伏せているが、さいたま市内の共学の中高一貫校といえば限られてしまうし、同じ市でフリースクールという教育活動をしていることもあり(近隣の家庭や同じ学校の生徒の場合もある)、こういう情報は敢えて意図的に検索しなくても向こうから飛び込んでくることが多い。

さて、今回の事件だが、「えっ、本当!?」という驚きよりも、「ああ、またか…」という感慨の方が先に来る。“意外”というよりは、“あってもおかしくない”という思いが強い。今の子どもたちを取り巻く教育状況からして、“起こるべくして起こった”という感じさえする。ヘボ将棋をしていれば当事者は気付かないが岡目八目の視点を持つ者からは何ら不思議ではない出来事である。かつて文部省は「不登校はどこの家庭でも起こり得る」と言って話題となったが、今や「どこの家庭でも起こり得る」ことは不登校にとどまらず、“引きこもり”にせよこの度の事件にせよ、幾つもあるのである。

かつては“異常だ!” “変だ!”と言われたことも、その渦中に身を置いてしまえば異常でも何でもなくなる。それが当たり前の空気として呼吸し生活することになる。それが今、学校という場での教育状況であると私は感じている。

現実的に事件を考えれば、いわば模範的なさして非の付け所がない庶民的な家庭生活がそこにあったことは間違いなかろうと思う。経済格差とか双こぶ駱駝とか言われる社会の中でも、比較的安定した生活があったのではないか。そして、子どもたちの成長もほぼ親たちの期待に沿ったものであったことだろう。だから、ごく普通に考えれば今回のような事件はあり得ないことであった。

では、何故、今回このような悲惨な痛ましい事件がこの家庭で起こったのか。それは、「どこの家庭でも起こり得る」とは言っても、それは飽くまでも可能性の話であって、実際にどの家庭でも次から次へと起きるわけではない。起きるにはやはり訳があるのである。その訳とは何か。

(続く)
 


大分の教職員汚職問題から思うこと

2008年07月13日 | 教育全般

浅利被告の恩師の私大教授も口利き、元部下の江藤被告に(読売新聞) - goo ニュース

「どこまで続くぬかるみぞ」という感じの今回の大分県の教員採用に絡む汚職事件だが、「ああ、やはり…」と言った方がいいのか「えっ、まさか…」と言った方がいいのか、言葉の表現に迷う。

ただ長年民間の側から教育問題に関わってきた者の立場からすれば、「とうとう表に顕れたか…」というのが正直な感想である。今まで雑誌の活動を通じてもそういう関連の教職員の声や話題は幾つも耳にしてきた。「コネがなければ地元の教員にはなれない」というのは教員をはじめとする教育関係者の間では公然の秘密であった。

ということは、今回たまたま大分県で明らかになったようなことは、各都道府県レベルでは半ば常識に近い事柄であったとも言える。たまたま常識の通じないマスコミの人間の手にその情報が回ってしまったというレベルの問題ではないか:とさえ思える。誰かが何処かで「誰がそんな非常識な記者に情報をながしたんだよ!」とでも言っているのではないか。

その意味で今回の事件はまさに氷山の一角であり、大分県に限らずどの県でもあり得ることである。誰も敢えて猫に鈴をつける役をしようとしないだけである。その意味では、学校の教員同士の問題も組合の問題も視点を変えればコップの中の争いに過ぎないとも言える。今日職員同士が争っていても、一たび学校教育そのものが問題の俎上にあがった場合には、呉越同舟よろしく一致団結して守りに入るのである。

これは、近年の生徒の学びからの逃走の問題も、学級崩壊の問題も、学力低下の問題も、不登校の問題もみな同じである。たとえば、そこに県立の教員養成の大学や学部があった場合には、他県で学んだ(たとえば東大など)学生よりも優遇されるし、彼らが作り上げてきた伝統(たとえば校長・教頭はスポーツ系とか)が重んじられる。また、教員養成大学で教育行政に異議を唱えるような教授のいるゼミからは教員になるのは難しいなどという話も教員の卵の学生たちの間では常識として交されている。

大分県の教育長が自身の潔白を表明する会見の中で、「教育を行うものが…」という発言があったが、学校は教員のためのものという意識がのぞく。「子どもたちのために学校はある」という感覚はこの教育長にもないようだ。